第十八話『亡霊は微笑まない』
夜明け前の空気は、香りにとって最も純粋な器だった。
誰もがまだ夢の中にある時、香は人の心に直接触れる。
そんな刻限に、御殿の女中ひとりが、錯乱状態で見つかった。
「……話したの、あの方と……確かに……」
彼女の名は澪(みお)。
普段は口数の少ない真面目な女中であり、取り乱すなどありえない性格だった。
だがその彼女が、血の気の引いた顔で庭の縁にしゃがみ込み、泣きながら笑っていたのだ。
「白い衣で……花の下に立っていらして……優しく笑って……」
帰蝶が駆けつけたとき、澪の掌には、薄紙で包まれた何かが握られていた。
「これは?」
澪が震える手で差し出したそれは、香に燻された和紙だった。
ふんわりと沈丁花の残り香が漂い、その端に、墨のにじんだ文字が記されている。
──『この城に“二つの香の主”がいる。
そのどちらかが、私を消した』
筆跡は乱れ、けれど女性の手によるもの。
「……死者からの……手紙?」
澪は呆然と頷いた。
「香を……吸ったの。
気づいたら……あの方がいた。
わたしの目を覗き込みながら、こう言ったの。
“帰蝶様に伝えて。私は……消されたの”と……」
◆
その言葉を聞いた瞬間、お咲の顔が青ざめた。
「……やっぱり……あの方は……殺されたんじゃない……」
帰蝶はゆっくりとお咲の方を向いた。
「……どういう意味?」
お咲は肩を震わせながら唇を噛みしめ、しばらくしてから、ぽつりと答えた。
「“記憶”ごと……消されたのよ。
あの方がここにいたという“事実”を、香で……上書きされたの」
沈丁花の香は、記憶を呼び戻す香。
しかし裏を返せば、それは記憶を“作り変える香”でもあった。
帰蝶は目を細める。
(香が記憶を書き換える。ならば……“存在そのもの”も消せる)
人は、誰かを思い出し、語ることでその存在を定義する。
ならば、語られず、思い出されず、記録されずにいる者は?
──それは、死よりも深い“無”ではないか。
「……この城は、記憶の牢獄ね」
帰蝶は、死者と生者の間に漂う香の余韻を吸い込みながら呟いた。
誰かが、前の御台様の存在を封じた。
香を使い、彼女の痕跡を上書きし、誰の記憶にも残らないように仕向けた。
それが、霧隠の香だったのか。
あるいは、小夜自身の意思なのか。
いや──
香の“設計者”は、別にいる。
帰蝶は確信する。
誰かが、城全体を「香の記憶改ざん装置」として使っている。
香の調律。
香の記録。
香の削除。
これは、香を使った政(まつりごと)だ。
◆
帰蝶は香倉に戻り、霧隠の帳面を開く。
その最終頁には、わずかに墨の滲んだ走り書きがあった。
──『香は、人の心を変える。
だが、香が記憶を消すとき、心もまた消える』
「……ならば、私がそれを取り戻す」
帰蝶は、自身の香帳に新たな頁を加えた。
──『香は記録。
香は回帰。
香は想いを守る鍵』
そして、初めて自身の名を記した。
──調香筆記:帰蝶
香で消された者を、香で甦らせる。
それが、今の自分の戦。
亡霊は、もう微笑まない。
だが、その想いは香に宿っている。
帰蝶は香炉に静かに火を入れた。
新たな香が立ち上り、空気の中に記憶が還っていくのを、彼女は確かに感じていた。
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