第4章 『沈丁花の亡霊(ちんちょうげ の ぼうれい)』

第十六話『沈丁花の香、白き影にて』

それは、春を思わせる香だった。

 だが、あまりにも強すぎた。

 まるで花が咲き誇る庭に顔を押しつけられたような、むせ返るほどの沈丁花の匂い。


 朝、御殿の廊下に出た瞬間、帰蝶はその異常に気づいた。


 「……この香……何かが、おかしい」


 香炉から焚かれたものではない。風に乗って流れ込んでくるには濃密すぎる。

 女中の一人が駆け込んでくる。


 「姫様! 女中たちが……“御台様を見た”と……」


 「御台様?」


 「以前の……正室様でございます」


 帰蝶の目が鋭くなる。


 「その方は、亡くなったのでは?」


 「……はい。そう記録されております」


 しかし、その表情には明らかな動揺があった。

 慌てて廊下を進むと、数人の女中たちが座り込んでいた。

 顔色は蒼白で、だがその瞳は陶然としている。


 「……白い装束で、庭を渡って……こちらを見て、微笑んで……」


 まるで夢遊のように語る彼女らの背後には、なおも沈丁花の香が漂っていた。


 そのときだった。

 お咲が現れ、香の気配にぴたりと動きを止めた。


 「……この香り……」


 「お咲?」


 お咲は震える指先を鼻先にあてる。


 「……間違いありません。あの方の香りです……

 御台様……戻ってこられたんです」


 その目に浮かぶ涙は、信仰にも似たものだった。


 だが、帰蝶の表情は引き締まっていた。


 (亡霊ではない。

  これは、誰かが意図して“あの方”の存在を香で再現している)


     ◆


 香の発生源を探るため、帰蝶は御殿の最奥に向かった。

 女たちの誰もが近づかぬ場所、古い香木を保管する“地下香倉(こうぐら)”。


 封印の札は破られ、扉の前には踏み散らされた足跡。

 扉を開けると、そこは薄暗く、幾重もの香の層が重なっていた。


 そして──最奥の棚で、ひときわ古びた香包が空になっていた。


 『沈丁香──記録消失・未調合香』


 その札の裏には、かすかに残された墨痕。


 ──“香にて、逢う”


 帰蝶の脳裏に、数日前に読みかけた調香書の一節が蘇る。


 『香逢(こうほう)──死者と交わる香術。

  その香、記憶を呼び起こし、姿なき者の気配を映す』


 「……香で、“亡き人”を呼ぶ……術」


 目を閉じる。

 脳裏に、お咲の震える声が蘇る。


 『あの方が、戻ってきた……』


 その香に、誰かが応じてしまったのだ。

 まるで呼ばれるように。

 あるいは──戻りたかった者が。


 帰蝶はゆっくりと目を開けた。

 香倉の奥、沈丁花の香の中心に──確かに“何か”が、まだ揺らいでいた。


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