第十五話『花の下にて、香は決着する』
春の風が、御殿の庭を優しく撫でていた。
桜がほころび、若草の香が空気に溶ける中、“春の香会(こうえ)”が催された。
参加者は、帰蝶、小夜、そして女中たち。
格式ばらず、しかし静謐な香の場。
香炉が中央に据えられ、二人の姫が対座する。
「今日は、あなたと私の“香”で、心を計りましょう」
小夜が扇子を伏せ、優雅に告げた。
帰蝶は頷き、香包を差し出す。
「まずは、私から」
焚かれた香は、白檀と杏仁、そしてほのかな月桃。
鼻腔を抜けた瞬間、虚飾の幕が剥がれるような静かな衝撃が広がる。
女中たちは、最初こそ微笑んでいたが、次第に頬が濡れていった。
泣きながら笑い、笑いながら涙をこぼす。
「……この香……なんでだろう……」
「楽しかった思い出が……あたたかくて……でも、切ない……」
帰蝶の香は、“偽りの笑み”を取り去り、心の底にある想いをあぶり出す。
記憶の真を引き寄せ、無意識の仮面を脱がせていく。
女中たちは皆、過去と向き合い、現在に涙した。
次は、小夜の番だった。
彼女は静かに香を焚く。
蜜柑の皮、ジャスミン、そして微量の紅蓮根。
香が立ち上った瞬間、会場はふわりと“幸福”に包まれた。
「懐かしい……」
「子供のころの……あの陽だまり……」
少女のひとりが、香に包まれたまま膝を抱え、ぽろぽろと涙を流した。
「……お母様に、もう一度会えた気がして……」
だが、帰蝶は見逃さなかった。
香の中にある“静かな麻酔”。
感情を固定し、記憶を心地よく封じ込める作用。
(これは……“目覚めない幸福”)
香が誘うのは、“今”ではなく“かつての理想”。
幸福に満たされる代わりに、目を閉じさせる香。
小夜の目が、わずかに揺れた。
少女の涙を見つめながら、ふと目を伏せる。
「……あなたの香は、眠りを与える」
帰蝶は静かに言った。
「でも私の香は、覚醒させるの。
現実と向き合わせて、でも、そこにいる誰かを見せてくれる」
小夜の笑みが、ほんの一瞬だけ、苦く歪んだ。
だがすぐに整えられる。
「勝負あり、ですわね」
小夜は立ち上がる。
振り返らずに言葉を残す。
「次は、“兄上”の前で香りましょう」
帰蝶は、その背を見送りながら、ゆっくりと香帳を開いた。
──『香、眠りと覚醒を分かつ。
想いを封じる香もあれば、想いを晒す香もある。
私は、香にて目を開かせる者となる』
春の花が揺れた。
その影の下、帰蝶の香が、確かに地に根を下ろしていた。
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