第十三話『花弁に忍ぶ毒のしずく』

 朝霧のように揺らぐ香が、書庫の奥に残っていた。

 帰蝶はひとり、古びた香帳を開いていた。

 小夜が贈った香──それがどの系統か、調べるために。


 重ねられた香木の記録、調合比率、そして納入先。

 その筆録の中に、異質な一文があった。


 『香師・霧隠(きりがくれ) 納入経由:尾張織田家、信長公御所管』


 目を細めた帰蝶は、思わず息を呑む。


「……霧隠」


 その名は、かつて一度だけ耳にしたことがあった。

 “信長公に毒を盛った者”として、記録上は死んだとされていた調香人。


 だが、その名が小夜の香帳に残っていた。


(まさか、小夜は……)


 そのとき、襖の外から女中の叫び声が上がった。


「姫様! 沙英様が、沙英様が──!」


 駆けつけた先に、女中・沙英が座り込み、虚空を見つめて笑っていた。

 その顔には、どこか陶酔の面影があった。


「……姫様。ご覧ください。私……やっと、あの方に褒めていただけました……」


 誰かに撫でられるように頬を紅潮させ、沙英は過去の“記憶”に浸っていた。


「……この香、昨日の“笑いの香”とは違う」


 帰蝶は、室内に残っていた香灰を集め、すぐに香分解の作業に入った。

 石臼にかけ、粉末を水に溶かし、薬紙で成分を抽出していく。


 ──紅蓮根、麝香、薄紅の紅花に混じり、“鶏冠草”の痕跡が現れた。

 それは、強い記憶固定を引き起こす成分。


 だが同時に、微量の“催奇性アルカロイド”が含まれていた。

 過去の記憶をただ封じ込めるのではなく、それを美化し、永遠化させる。


「……これは、“記憶の釘”」


 帰蝶は、苦々しく呟いた。


「過去を刺し貫き、心に縫い付ける香」


 その効力は一時的な快楽を生み出すが、やがて現実との乖離を引き起こし、錯乱を生む。


 沙英はまだ微笑みながら、誰もいない空間に向かって言葉をかけていた。


「お母様……やっと、褒めてくれたのね……」


 涙を流しながら。


     ◆


 夜。

 帰蝶は自室の灯を落とし、静かに香を焚いた。

 しかし、それは嗅ぐためのものではなかった。

 対抗するための、香の“中和試作”だった。


「笑顔の毒、記憶の釘……」

「あなたの香は、武器にも盾にもなる……小夜」


 だがそれを扱う者が、幼き日の“笑顔”を守るために香を選んだとしたら。

 その刃は、どれほど深く誰かを傷つけていくのだろう。


 帰蝶は香帳に書き記す。


 ──『霧隠、今も生きている。小夜の香、その影に“過去の毒”あり』


 炎の揺らぎに香が乗り、かすかな白煙が御殿を這う。

 誰にも知られぬまま、香の謀はなおも息づいていた。


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