第九話『香文の夜──兄と弟の密命』

 夜が更け、静寂が深まった頃。

 帰蝶の部屋に、香の包みが届けられた。

 文ではない。香木そのもの。

 それは、特別な文──「香文(こうぶん)」だった。


 香を焚くことで、煙に文字が浮かぶ。

 選ばれた者にだけ読める、密命の伝達方法。


 帰蝶は慎重に香炉に火を入れ、香木を焚いた。

 淡く漂う紫煙の中に、筆の軌跡が現れる。


「女の眼で、この城を見よ。

 愛する者が、殺すべき者となる時がある」


 その筆跡──確かに信長。

 剣のように鋭く、だがどこか余白に寂しさを含んだ筆致。


 そこへ、佐伯が姿を現した。


「……受け取られましたね。兄上の“ことば”を」


 帰蝶は振り返り、仄かに微笑んだ。


「香で伝えるとは、ずいぶん回りくどい男」


 佐伯は、仮面を外していた。

 その素顔は薄暗がりに浮かび、まるで少年のように脆い。


「姫様には、分かりますか?

 この城で兄上がどれほどの孤独を抱えているか」


「……あなたは信長に“仕えている”のではない。

 “縋っている”のよ。愛の残り香に」


 佐伯の目が細くなり、唇が震える。


「やめろ……それ以上、兄上を侮辱するな」


「私は事実を言っただけ」


「黙れ!!」


 佐伯は歩を詰め、帰蝶のすぐ目前まで迫った。

 その手が、袖の奥でわずかに震える。


「兄上は……兄上だけは、私を見てくださった」


「ならば、あなたの香で伝えればいい。

 けれど、香は嘘をつけないわ。あなたの本心も──香に揺らいでいる」


 その瞬間、焚かれた香が強く薫った。

 佐伯の瞳が揺らぎ、膝が崩れる。


 帰蝶はその肩を受け止めた。


 佐伯の体から微かに発された熱、それは“激情”の残り火だった。


「兄上……どうか、誰を選ぶのか……私に……」


 言葉が掠れ、佐伯は香の煙に包まれて沈んだ。

 その表情は、幼子のように安らかで、哀しかった。


 帰蝶は、彼の髪をひと撫でする。


(愛とは、誰かのためにあるもの。

 だがそれが、誰かの手で歪められたとき──香は“刃”にもなる)


 香炉から立ち上る煙が、夜空に溶けていく。

 信長の声も、佐伯の想いも、すべてその香に包まれて。


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