第2章『仮面と香炉編』

第六話『密やかな香炉──歪みゆく記憶』

 朝の香炉から、微かに甘い香りが漂っていた。

 白檀を主としながらも、仄かに混じる花の気配。それは昨日のものと違う。


 帰蝶は座したまま、香の流れに意識を預ける。


(……沈丁花。いや、それに似た調合。記憶の層を撫でるような、奇妙な香だわ)


 そこへ、女中・千世が現れた。


「お早うございます、姫様。本日の香も……とても、優しくて」


 千世は頬を染め、ぽつりと口にした。


「昨夜……私、お咲様に……口づけされた夢を見たんです」


 空気が、わずかに歪んだ。

 千世の頬は火照り、潤んだ目を伏せている。


「夢でしょうか? でも、目が覚めたときも、唇が熱くて……」


 帰蝶は目を伏せる千世と、傍らで動きを止めたお咲の様子を見比べた。

 お咲の表情は無表情に整えていたが、その耳たぶが赤い。


「お咲。あなたは?」


「そのようなこと、しておりません……断じて」


 だが、その声にはわずかな震えがあった。

 帰蝶は静かに立ち上がり、香炉に近づく。


 中に仕込まれた香木を覗き込むと、微細な刻印が刻まれていた。

 三重円――以前見た印と同じ。


(また……記憶を操る香)


     ◆


 その夜。


 廊下に立つ帰蝶の前に、仮面の男・佐伯が現れる。

 白い仮面に、月の光が反射する。


「姫様。香炉は“感情の刃”でもあります」


「……感情、ですって?」


「忠義を恋と誤解させ、恋を従属に変える。香は、それを可能にする」


「夢を見させ、記憶を歪め、人の“真”を捻じ曲げる……それが、あなたたちの香」


 佐伯は微かに頷いた。


「真実より、御しやすい感情の方が、政には都合が良いのです」


 帰蝶は仮面を見据えたまま、言葉を放った。


「でも、その香は、あなたの“愛”すら壊してしまう」


 その一言に、仮面の男の肩がわずかに震えた。


     ◆


 部屋に戻った帰蝶は、まだ頬を紅潮させている千世と、何も語らずうつむくお咲を見ていた。


 香は、恋の幻を生む。

 あるいは、幻の恋が香によって“本物”になる。


 帰蝶は香炉の蓋をそっと閉じ、静かに呟いた。


「……嗅ぎ分けてあげるわ。その想いが、夢か真かを」

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