第四話『沈黙の女中──舌を抜かれた者たち』
昼下がり。帰蝶は御殿の回廊をひとり歩いていた。
廊下には草履の音ひとつ響かず、壁越しに聞こえるのは、掃除や水の音のみ。
そのとき、ふと視界の端に映る女中の一団に気づく。
四人ほどの若い女たちが、黙々と膳を運び、目配せだけで動いていた。
(……全員、声を発していない)
不自然なほど、沈黙が貫かれている。何かが“押し潰している”ような圧力だった。
その夜、帰蝶はお咲に問いかけた。
「廊下で見かけた女中たち、誰も言葉を発していなかった。なぜ?」
お咲は、一瞬で顔色を失った。
「……姫様。あの方々には、舌が……ございません」
「……抜かれたのね」
「言葉を乱した罪、あるいは“聞いたことを漏らす恐れがある者”が……」
帰蝶は目を閉じた。恐怖を植えつけるには、最も効果的なやり方だった。
そしてそれは、香と同じく“沈黙で人を支配する”方法だった。
◆
深夜。廊下でふとすれ違った一人の女中が、帰蝶に目礼をした。
その仕草に、どこか人間味があった。
帰蝶は立ち止まり、女中を見つめた。
「……名は?」
女中は口を開かず、袖の中から指を差し出し、自らの名を“手話”で示した。
──朱音。
帰蝶は、かすかに微笑む。
「話せないのね。でも、伝える手段はある」
朱音は頷いた。そして、数度、手を組み替える。
帰蝶は、かつて学んだ“指符”の記憶をたどりながら読み取っていく。
──香は、命により、変えられている。日ごとに。
──命じたのは、“あの方”。
帰蝶は、ふと息をのむ。
「“あの方”とは、信長ではないのね?」
朱音は、何も言わない。ただ、目を伏せて首を横に振った。
誰かが、信長以外の誰かが、この御殿の香を操っている。
◆
翌朝。
朱音は、いなかった。
名前も、記録も、布団すら片付けられ、“最初から存在しなかった”かのように。
お咲に尋ねても、何も答えない。ただ、無言で、ひとつだけ頷いた。
帰蝶は確信する。
この城には、香と沈黙と恐怖で成り立つ“もう一つの主”がいる。
そしてその者は、女たちを使い、香を通して心を制御している。
(舌を抜かれても、想いは伝えられる。ならば私も、この沈黙の檻を壊してみせましょう)
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