第二話『女たちの館──消えた正室、噂と沈黙』

表御殿。帰蝶に与えられた居住区であり、正室たる者の象徴でもある場所。

 だがそこに足を踏み入れた瞬間、彼女の鼻腔に広がったのは、香ではなかった。

 ――湿った畳の匂い、炭火の残り香、そして……言いようのない沈黙の気配。


 廊下を歩く女中たちは、皆一様に視線を落とし、擦り足で動く。挨拶もなければ、会釈すらない。

 まるでそこに「言葉」という概念が存在していないかのようだった。


(……異様ね。無礼ではない。けれど、何かが抑え込まれている)


 帰蝶は歩きながら、袖越しにすれ違う女中たちの手元、足の運び、視線の流れを観察する。

 そこには一種の訓練された整然さがあり、同時に“怯え”があった。


「御用意が整っております。こちらへ」


 控えめに声をかけてきたのは、十五、六ほどの女中だった。

 他の者と違い、こちらの目をきちんと見据えていた。


「あなたの名は?」


「お咲と申します。水回りと香の支度を任されております」


 帰蝶は少しだけ、目を細めて微笑んだ。だがその微笑には鋭さが混じる。


「……ならば、水と香はあなたに一任するわ。余計な手は入れさせないで」


「はい」


 お咲の声は震えていなかった。だが、その奥には明らかな“試すような緊張”があった。


     ◆


 夜。寝所に通された帰蝶は、襖を閉めたまま、部屋の構造を確かめていた。

 壁に耳を当てれば、わずかに風の通る音。隣室が近いのか、壁は薄い。


 灯を消すと、外の月明かりが障子を淡く照らす。

 静寂。

 ……そしてその直後、どこからか、かすかな呻き声が聞こえた。


「……っ……やめ……く、くるしい……」


 女の声。それも、押し殺した苦悶。

 帰蝶は布団から音もなく抜け出し、そっと障子に身を寄せた。


(隣室……? 違う、もっと奥から。だがこれは……)


 呻きは一瞬で途絶えた。代わりに、何かを引きずる音。

 それもすぐに静寂に飲み込まれる。


     ◆


 翌朝。支度を整えた帰蝶のもとへ、お咲が再び現れる。


「……昨夜のこと、何か知っているのではなくて?」


 お咲は、ほんのわずかに目を伏せた。


「申し訳ありません。……ここでは、あまり多くを口にしない方が」


「誰のために?」


 その問いに、お咲は答えなかった。

 代わりに、ぽつりと呟く。


「先の御台様も……ある晩、同じように呻き声を上げて、そのまま……お姿を見せなくなりました」


 帰蝶の瞳が静かに光る。


「“見せなくなった”のか、“見せなくした”のか。それによって、意味が違うわ」


 お咲は何も言わず、頭を下げる。その姿は、明らかに怯えていた。

 だが、その怯えは「帰蝶に対して」ではなかった。


(私ではない。……この御殿そのものに、怯えている)


 部屋の外から、香の煙が漂ってきた。

 昨夜の香と、どこか違う。

 それは、まるで“記憶を塗り替える”ような香りだった。


(この城は、沈黙と香で真実を封じている)


 帰蝶は、目を閉じた。

 そして、そっと呟いた。


「ならば、私が嗅ぎ分けてあげましょう。その香が、何を隠しているのかを」


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