『婚礼と、うつけの影』
第一話『婚礼と、うつけの影』
尾張・清洲城。春霞に煙るその天守を、帰蝶は籠の中から睨みつけていた。
婚礼の日とはいえ、空気は冷たく、風が乾いていた。輿の中には薄紅の打掛、匂い袋の微かな香、そして――無言の緊張。
門が開いたとき、微かに漂ってきたのは、焦げたような香と、鉄錆の匂いだった。
人の血を何度も拭った布のような、古びた刀のような、それでいて妙に鼻につく。
「……ようやく、着いたのね」
呟いた声に返事はない。女中たちも、供の者たちも、皆、まるでこの城の空気に飲まれてしまったかのように口を閉ざしていた。
帰蝶は静かに輿を降りる。出迎えの家臣たちは整列していたが、ひとりとして目を合わせてこようとはしなかった。
(なるほど。これが“うつけの城”というわけね)
彼女は冷静に、観察するような目で城門をくぐった。
◆
「殿は……ご体調がすぐれぬとのことで。今宵は、御前に出られませぬ」
婚礼の膳が整う間、家臣のひとりが低く頭を下げてそう告げた。
その目は伏せられ、声は掠れていた。
「そう。ならば、私も今宵は眠るとしましょう」
帰蝶は笑わなかった。だが、断じても怒ってもいない。ただ、平然と、ただの政略の一幕を演じているだけ。
夜の膳は、上品な器に盛られ、部屋には白檀の香が焚かれていた。
だが。
「……この香、変ね」
鼻が利く彼女はすぐに気づいた。
香の奥に、わずかに混じる苦みと渋み。薬草系の、それも“毒抜けの香”である。
――誰かが、毒を盛った。
――そして、誰かが、それを誤魔化そうとしている。
その時だった。
部屋の襖がばたりと開き、女中が駆け込んできた。
「お、お姫様っ、たいへんです! 毒見役が……井戸の中でっ……!」
帰蝶は、静かに箸を置いた。
そして立ち上がると、風のように部屋を出た。
◆
女中の遺体は、すでに引き上げられていた。
喉を抑えたまま絶命していたその手には、何かを握っていた跡。
――そして、衣の袖には、香の匂い。
「……この毒、知ってるわ」
帰蝶は呟いた。
「美濃で使われていた。“薄紅ノ露”──見た目も味も薄いが、死後すぐに血が凝固する。跡が残らない」
誰が盛ったのか、ではない。
なぜ、帰蝶に毒を盛る“ふり”をして、女中を殺したのか。
誰かが、帰蝶を試している。
この城で生き残るために、彼女がどこまで“気づけるか”を。
◆
夜、部屋の外で気配を感じた。
振り向くと、廊下の端に、黒装束の男が立っていた。
顔には仮面。
「あなた……」
呼びかけると、男は一歩、だけ近づいた。そして──低い声で、こう呟いた。
「……姫様は、なぜ、微笑まれぬのです?」
帰蝶は黙って、仮面の男の背を見送った。
心の中で呟く。
(この城で笑うほど、私は甘くないのよ)
こうして、帰蝶の婚礼は、静かに幕を上げた。
毒と香と沈黙の中で、始まりの夜が終わる。
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