『濃姫の密薬帳 ――毒と微笑は、女の武器です』
常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天
プロローグ 『毒姫、尾張に降る』
人が一人死んでいた。
それは“嫁ぎ先”の城で、最初に目にした光景だった。
畳の上には、女中と思しき女の亡骸。
吐血はすでに乾き、部屋にはかすかに芍薬の香が漂っていた。
無様ではなかった。苦しんだ形跡も、暴れた跡もない。
ただ、眠るように──けれど決して目覚めない姿で、静かに横たわっていた。
「……ずいぶんと手慣れた毒ね」
濃姫、あるいは帰蝶と呼ばれたその娘は、膝を折り、屈み込む。
袖口から銀の薬匙を取り出し、血の混じった唇にそっと触れさせる。
微かに、苦み。
山間の草に含まれる砒素。けれどこれは、調合されている。
――単純ではない。
ただ殺すのではなく、“特定の者”を狙って盛るための毒。
帰蝶は小さく息を吐いた。
ようやく辿り着いた尾張・清洲城。
政略のために送られたこの地で、婚礼の夜に夫にも会わぬうちから人が死ぬ。
口元に浮かんだのは、笑みではなかった。
むしろ、かすかな皮肉と……どこか退屈そうな眼差し。
「歓迎の膳にしては、少々雑。毒の量が多すぎるの。
殺し切るつもりがなかったなら、もっと上品にやってほしいわね」
女中の死体の手のひらには、一枚の和紙が握られていた。
震える指先で、それを解く。
『──これをもって、“忠誠”を示す』
『殿の御膳ではない。姫の御膳に盛れ』
「……なるほど、そういうこと」
婚礼の膳に、毒が仕込まれていた。
しかし、それを止めた者がいる。
そして止めた証として、この女は“誰か”の命令に逆らい、死んだ。
帰蝶は、誰もいない部屋で立ち上がる。
そして、室内の香炉に目をやった。
焚かれていたのは白檀に似た香。だが、その下に忍ばせた香木は──
「……奇妙ね。屍の匂いを香に混ぜるなんて、誰の趣味かしら?」
誰が味方で、誰が敵なのか。
夫となる織田信長は、まだ姿を見せぬ。
政略とは、かくも面倒で、そして退屈なものか。
だが、それでも構わない。
「……殺される前に、こちらがすべて見抜いてあげる」
婚礼は始まった。
だが、愛も祝福も、そこにはない。
あるのは、毒と香と、冷たい微笑みだけ。
こうして、濃姫の婚礼録が始まる。
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