井上あさひの覚醒

写乱

第1話 覚醒

 週の中で一番心が浮き立つ瞬間、金曜日の放課後。最後の授業が終わるチャイムが鳴り響き、二年三組の教室は解放感と週末への期待で一気に騒がしくなった。窓の外には初夏の強い日差しが降り注ぎ、空はどこまでも高く青い。


「やっと終わりー!疲れたー!」


 隣りの席の高橋由紀が、大きな伸びをしながら、太陽みたいに明るい笑顔を私に向けた。由紀は、ツインテールの茶色い髪を快活に揺らし、今日の青空のように笑ってみせる。制服のリボンを少し緩めていて、それも彼女の明るいキャラクターによく似合っていた。対照的に、私はどちらかというと物静かな方で、長い黒髪をそのまま下ろしていることが多い。目立つことは好まず、真面目だとか、大人しい子とか、そういう風に見られがちなタイプ。そんな私にも、由紀はいつも屈託なく話しかけてくれる、大好きで大切な親友だった。


「本当、今週は長かった気がするね」

 私も、教科書やノートを鞄にしまいながら、苦笑いで応えた。


「でしょー?ねえ、あさひ、今日この後どうする?どっか寄ってかない?」

「うーん、どうしようかな。特に予定はないけど……」

「じゃあ決まり!駅前に新しくできたクレープ屋さん行こうよ!すっごく美味しいって評判なんだって!」


 由紀は目を輝かせて提案してくる。彼女のこういう、楽しそうなことにはすぐ飛びつくようなところが、私は好きだった。

「クレープか、いいね。行こうか」

 私が頷くと、由紀は「やったー!」と小さく跳ねて喜んだ。


 私たちは、鞄を持って席を立ち、賑やかな教室を後にした。廊下を歩き、階段を下りていく。他の生徒たちの、週末を前にした浮かれた話し声や笑い声が、あちこちから聞こえてくる。私たちは、昇降口で外履きに履き替え、校舎の外に出た。グラウンドからは運動部の掛け声が響き、文化部の生徒たちが楽器のケースを持って歩いている。そんな、いつもの放課後の風景の中を、私たちは校門へと向かって歩いていた。


「それでね、そのクレープ屋さん、トッピングもすごい種類があって……」

 由紀が楽しそうに話しているのを、私は相槌を打ちながら聞いていた。校門が見えてきて、もうすぐ学校の敷地を出る、というその時だった。


「……あ」


 私は、不意に、あることを思い返して、足を止めた。今日の最後の授業、現代文の時間に配られた宿題のプリント。週明けすぐ提出なのに、机の中のバインダーに挟んで置いてきてしまった。授業の終わった瞬間は、土日にやろうと思っていたはずなのに……。あーあ。


「どうしたの、あさひ?急に止まって」

 隣を歩いていた由紀が、不思議そうに私の顔を覗き込む。

「……ごめん、由紀。どうしよう、現代文のプリント、教室に忘れてきちゃった……」

「えー!うそ!大丈夫?月曜提出でしょ?」

「うん……。ごめん、私、ちょっと取ってくる!」

 私は踵を返し、校舎へと引き返そうとした。

「あ、じゃあ、私ここで待ってるよ」と由紀が言う。

「ううん、いいよ」私は首を振った。「先生、もう戸締りしてるかもしれないし、少し時間かかるかもしれないから。せっかくクレープ楽しみにしてたのに、待たせちゃうの悪いし」

 本当はクレープよりも、一人で教室に戻る手間の方が億劫だったけれど、ここで由紀をつき合わせるのは気が引ける。

「そう……?分かった。じゃあ、クレープはまた今度かな。プリント、ちゃんと見つかるといいね」

「うん、ありがとう。ごめんね、来週埋め合わせするから」

「気にしないで!じゃあ、また月曜日にね!」

 由紀は、いつもの元気な笑顔で手を振ると、校門の方へと歩いて行った。私はその背中を見送り、ふぅ、と一つため息をつくと、再び校舎へと足を向けた。


 校門から昇降口までは、少し距離がある。他の生徒たちはもうほとんど帰ってしまったのか、校庭を横切る私の周りには、人影はまばらだった。グラウンドの奥からは、まだ運動部の声が微かに聞こえてくるけれど、校舎に近づくにつれて、辺りは静寂に包まれていく。西に傾いた太陽が、校舎の壁をオレンジ色に染め、私の影を長く地面に伸ばしていた。なんだか、学校という巨大な生き物の中に、私一人だけが再び吸い込まれていくような、奇妙な感覚。少しだけ、心細い。


 昇降口が見えてきた。ドアはまだ開いているようだ。先生がまだ残っているのだろう。私は、少し早足になりながら、昇降口へと入った。外履きを脱ぎ、自分の上履きに履き替えるために、私たちのクラスが並ぶ下駄箱へと向かう。午後の光が差し込む昇降口は、がらんとしていて、私の足音だけがコンクリートの床に響いていた。


 しかし、自分の下駄箱の列に近づいた時、私は不意に、そこに先客がいることに気づいて足を止めた。誰かがいる。その濃密な気配。先生?いや、違う。生徒だ。帰るのが遅くなったのかな?


 そう思いながら、下駄箱の棚の角から、そっと様子を窺った、その瞬間。私の目に飛び込んできたのは、見慣れた制服の後ろ姿だった。


(……北沢君……?)


 なぜ、彼がこんな時間に、ここに?

 そう思った次の瞬間、私の体は、まるで条件反射のように、近くにあった清掃用具入れのロッカーの影へと、素早く身を隠していた。息を殺す。心臓が、先ほど忘れ物に気づいた時とは比較にならないほど、激しく、そして不規則に鼓動を始めた。


 なぜ隠れたのか?自分でも分からない。ただ、彼の様子が、普通ではなかったからだ。彼は、何かを探すように、あるいは何かを恐れるかのように、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回していた。その動きには、尋常ではない焦りと、隠しきれない後ろめたさのようなものが滲み出ていた。


(……何、してるんだろう……?)


 見てはいけない。そう思いながらも、私の目は、ロッカーの隙間から、彼の行動に釘付けになっていた。


 彼は、念入りに周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、安堵したように小さく息を吐いた。そして、おもむろに、下駄箱へと手を伸ばす。彼自身の場所ではない。私の、下駄箱だ。


(え……!?)


 彼は、私の下駄箱から、迷うことなく、少し汚れた、私の白い上履きを取り出した。


(……なんで……!?)


 混乱する私の思考をよそに、北沢君は取り出した私の上履きを、両手でそっと包み込むように持った。そして、次の瞬間、彼は信じられない行動に出た。彼は、その上履きを、ゆっくりと自分の顔に近づけ……そして、強く押し当てたのだ。目を閉じ、恍惚とした表情で、彼は私の上履きの匂いを嗅いでいる。


(……!?!?)


 目の前の光景が、現実のものとして認識できない。吐き気が、胃の底から込み上げてくる。あの、北沢君が?クラスでも目立たない、大人しい彼が?私の上履きを?


 驚きと、混乱と、そして、言葉にならないほどの強烈な嫌悪感。私は、ロッカーの影で、身動き一つできずに、ただ震えていた。


 私が覗き見ていることなど露知らず、北沢君はしばらくの間、私の上履きに顔を埋めていた。やがて、名残惜しそうに顔を離すと、彼は上履きを裏返した。


(な、何をするつもり……?)


 彼は、上履きの、汚れた靴底を、じっと見つめた。そして……。


 彼の舌が、赤い舌が、伸びてきて、汚れた靴底に触れたのだ。


(……あっ!!!)


 声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。


舐めてる。

舐めてる!

舐めてるんだ!!


 信じられない!何を踏んでいるか分からない、不潔極まりない靴底を!彼は、一心不乱に舐めている!


 その瞬間、私の中で、何かがぷつりと切れた。他人の秘密を覗き見てしまったという罪悪感など、吹き飛んでいた。代わりに、激しい怒りと、身の毛もよだつほどの嫌悪感が、沸騰するように湧き上がってきた。


(……許せない……っ!!!)


 感情の奔流が、私の理性を押し流した。私は、ロッカーの影から飛び出していた。


「何してるの?」


 自分でも驚くほど冷たく、低い声が出た。


 北沢君の動きが、ぴたりと止まる。彼は、靴底に舌をつけたまま、硬直していた。


 やがて彼は、錆びついた人形のように、ぎこちなく、ゆっくりと、こちらを振り向いた。その顔は、恐怖と、絶望と、驚愕で、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。


「い、い、いの……うえ……さん……っ!!!」


 彼の声は、裏返り、かすれ、悲鳴に近かった。


「それ、持ってるの」私は、氷のように冷たい声で言った。「私の上履き、だよね?」


「っあ……!こ、こ、これは……!ちが……その……っ!」彼は、上履きを背中へと隠そうとする。


「最初から、全部、見てたんだよ」


 私は、事実を突きつけた。彼の動きが、再び止まる。


「……っ……」彼は、俯くだけだった。顔が、泣き出しそうに歪んでいく。


「靴底……舐めて……た……よね?」


 決定的な質問。それが、彼の最後の砦を打ち砕いた。彼は、突然、その場でコンクリートの床の上へと、崩れ落ちた。土下座。


「すっ、すいませんっ!すいませんっっ!!!」


 絶叫するような謝罪。衝撃で、私の上履きが彼の脇へと転がり落ちる。


「ごめんなさい……!本当に、ごめんなさい……!」


 彼は、嗚咽を漏らしながら、何度も土下座を繰り返した。しかし、その姿を見ても、私の心に同情は湧いてこなかった。むしろ、怒りは増していく。


(泣きたいのは、こっちの方なのに……!)


 その時、私は、自分でも信じられないほど冷徹な言葉を、彼に投げつけていた。


「……うるさいよ」


「……っ!!」彼の嗚咽が、ぴたりと止んだ。彼は、土下座したまま動かなくなった。


 その姿を見下ろしていると、私の胸の中に、新たな、形容しがたい感情が湧き上がってきた。


(……汚い)


 彼自身が、彼の存在そのものが、不潔なもののように感じられた。


「先生に、言いつけようかな……」私は、脅すように言った。


「……っあ、あっ!!」彼は、弾かれたように顔を上げ、私の足首にしがみついてきた。


「いっ、言わないで……!言わないでくださいっ!お願いですっ!」彼は必死に懇願する。


「ちょっ、ちょっと、やめてよ!離して!」私は、反射的に右足を振った。


 ばきっと鈍い音。私の履くストラップシューズの爪先が、彼の額をかなりの勢いで蹴りつける。


「……っ!」彼は、打たれた子犬のように、体を縮こませた。


 その瞬間だった。彼のその、あまりにも無防備で、怯えきった表情を見た瞬間。私の頭の中に、鮮烈なひらめきが訪れる。


(……そうか……今の、この北沢君なら……私の言うこと、何でも聞くんじゃない……?)


 さっきまでの怒りや嫌悪感がすっと薄れ、代わりに、暗くて、甘美で、危険な感情が、私の心を支配し始めていた。


(……いいこと、思いついちゃった……)


 私は、ゆっくりと口角を上げた。


「北沢君って」私は、面白がるような口調で言った。「私の上履きが、そんなに好きなんだ?」


 返事はない。ただ、怯えきった目で私を見上げ、震えている。


「ふーん……。じゃあ、そこに転がってる、私の上履き、ちゃんと揃えてくれる?」


 彼は一瞬戸惑ったが、すぐに私の意図を理解したのだろう。彼は、泣き腫らした顔を上げ、上履きを拾い上げ、私の足元に丁寧に揃えて置いた。


 私は、履いていた外履きを脱ぎ、目の前に揃えられた上履きへと、短めの白いソックスに包まれた足を入れた。ほんのりと生暖かく、湿っているような気がした。


 そして、私は静かに、しかしはっきりと、彼に次の命令を下した。


「舐めて」


「……え……?」彼は、呆然とした顔で私を見上げた。


「さっきも、私の見ていないところで、靴底まで舐めて、きれいにしてくれてたんでしょう?」私は繰り返した。「私が履いてたら、舐められないの?」


 彼は、がくがくと首を横に振る。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと俯き、諦めたように……おずおずと、赤い舌を出した。


 彼は、這いずるようにして私の足元へと近づき、私の右足の上履きの、爪先のゴムの部分に、その震える舌を、そっと触れさせた。


 その瞬間、私の心臓は、ドキリ、と大きく跳ねた。怖かった。けれど、それ以上に、強烈な、背徳的な興奮が、私の全身を貫いていた。怒りは薄れ、好奇心、支配欲、そして、未知の感情……言いようのない気持ち良さが、確かに芽生え始めていた。


 私は下駄箱に寄りかかり、左足を持ち上げ、ゆっくりと彼の頭の上へと下ろしてみた。汚れた靴底が、彼の黒い髪に触れる。彼の舌の動きが、ふっと止まった。


(……抵抗、する……?)


 しかし、次の瞬間には、彼の舌は再び動き始めていた。頭を踏みつけられている屈辱を受け入れて。


(……そう……あなたは、そういう人間なのね……)


 彼の完全な服従は、私の不安を消し去り、さらなる自信と愉快な気持ちを増幅させた。


「北沢君って……変態なんだ」私は嘲るように言った。「だって、人の上履き、舐めてるんだもの」


 私は、彼の頭に乗せた左足に、ゆっくりと体重をかけてみた。それでも、彼は抵抗しない。ただひたすら、私の右足の上履きを舐め続けている。


(……ああ、なんて楽しいんだろう……!)


 しかし、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。


「もういいよ。やめて」


 私が唐突に命令すると、彼はピタッと舐めるのをやめた。その従順さ。


(もっと、安全な場所で、じっくりと……)


 私は、右足の上履きの爪先で、彼の顎をくいっと持ち上げた。彼の目は、涙で濡れ、恐怖と混乱と、ほんの少しの、倒錯した光を宿していた。


「ついてきて」


 私は、氷のように冷たい声で、短く、しかし絶対的な命令を下した。


 彼は、のろのろと、しかし逆らわずに、立ち上がった。コンクリートのたたきに腹ばいになっていたせいで、彼の制服は埃まみれになっていた。その汚れた、惨めな姿。


 それを見ていると、私の胸の中に、ぞくぞくするような、怖いくらいの、それでいて抗いがたいほどの、気持ち良さが、はっきりと芽生えてくるのだった。

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