別宇宙録 蚊との一夜(元夏の風物詩)
@rurrururrururru
蚊との一夜
この季節になると、遠い夏の夜がふと蘇る。風鈴の涼やかな音色、氷を削るシャリシャリという音、灼熱の日差し。けれど、今宵の私は別の苦しみに身を委ねている──肌に刻まれる微細な痛みと、その後を追うように忍び寄る痒さ。
「プゥン……プゥン……」
微かな羽音が静寂を切り裂く。扇風機の低い唸り、遠くを走る車のエンジン音。それらすべてを遠ざけるように、一匹の刺客が私の周囲をゆるやかに旋回している。獲物を前にした狩人のごとく、確実な一撃の機を窺っている。
最初の標的は、無防備な私の足首だった。顔の近くなら即座に手が届くが、暑さのために掛け布団から出した素足は格好の獲物となったのだろう。皮膚の内側を這うような微かなチクリとした感覚は、針が肌を貫いた証だった。これが数時間後には炎のような痒みへと変わることを、私は身をもって知っている。悪魔的な遅効性の毒だ。一度目の敗北。
次は腕だろうと直感が告げる。シャツから露出した肌には汗が滲み、微かに光を帯びている。夏の夜の戦いに慣れた私の肌は、次なる攻撃の場所を予測している。
耳元での羽音に意識を集中させ、全感覚を研ぎ澄ます。暗闇では視覚は役に立たず、聴覚と直感だけが頼りだ。心臓の鼓動がわずかに早まる。
「プゥン」──左腕上部から不意に響く警告音。
咄嗟に右手を伸ばし、左腕を叩く。「パン」とも「バシン」とも聞こえる虚ろな音。仕留めたのだろうか?
直後、肘の内側、血管の透ける柔らかな皮膚に熱を帯びた痒みが走る。狙いすました蚊の一撃は、私の最も脆い場所を見抜いていた。二度目の敗北。
静寂の中で時計の針だけが淡い光を放ち、午前二時を指している。夜はまだ長く、この戦いも始まったばかりだ。ゆっくりと息を整え、次なる一手を探る。窓は閉めたものの、蚊取り線香を灯しておけばよかったかもしれない──後悔は虚しい。
肌を這う汗とともに、微かな痒みが腕から背中へと支配地を広げていく。
数分後、刺客は再び私の領域へ舞い戻ってきた。今度は警戒を解いた瞬間を突いたのか、腹部への急襲に気づいたときには既に遅く、臍の横に小さな赤い点が生まれていた。やがてそこから、耐え難い痒みが波のように押し寄せてくるのだと思うと、思わず身が震える。三度目の敗北。
残された防衛線は顔のみ。視界に捉えられれば一撃で仕留められるはず。だが暗闇の中では、音だけが真実を語る。
「プゥン……」
右耳のすぐ側で鼓膜を揺らす羽音に、全身の産毛が逆立つ。
「はっ!」
手を振るが、空を切る音だけが虚しく響く。羽音は執拗に続き、私は左から右へと腕を振り回す。しかし汗と疲労で動きは鈍り、思考さえも蝕まれていく。
「プウゥン」──鼻先のすぐ前で。視界の隅に黒い小さな影が掠める。
咄嗟に顔を守ろうと手を上げるが、その隙を狙われたかのようだ。
やがて腕の力が抜け、息が整ったとき、額の生え際に痒みを感じる。指で触れれば僅かに熱を持つ。薄れゆく意識の中で気づく──最後の防壁はとうに破られていたのだと。
深い溜息とともに、ベッドサイドから虫刺され用の軟膏を手に取る。キャップを外し、指先に取った冷たい薬液が肌に触れると、清涼感が広がり、ほんの一瞬だけ痒みの支配から解放された気がした。
闇に包まれた部屋で、私は静かに微笑む。この夏の夜の不条理な儀式は、毎年違うようで同じように繰り返され、肌には無数の赤い勲章が刻まれていく。
そして、薬の香りと僅かな痒みを抱えたまま、再び深い眠りへと身を委ねる。明日の朝には、きっと新たな戦いの痕跡が見つかるだろう。
──これが、私の夏。終わりなき夜の、密やかな儀式。
四度目の敗北は、私が気づく遥か前に完結していたのだ。
別宇宙録 蚊との一夜(元夏の風物詩) @rurrururrururru
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