マーダー・オン・ユア・マインド
川上いむれ
第1話 終わりの終わり
僕は本を読んでいた。季節は梅雨の最中で、マンションの窓ガラスには降り注いだ雨が細い流れとなってつたっていた。ソファに寝転がりながら本を読んでいたので少々腕が疲れてくる。
「ねー、君、さっきから何読んでんの?」
テーブルの方から声がかかる。
「さあ、なんだと思いますか?」
声の主は不満そうに答える。
「あのさー、私、はっきり物を言わない男って嫌いなんだけど。君もその類なの?」
やれやれ、僕は文庫本を閉じてその人の方を見て答えた。
「太宰の『晩年』ですよ。ヤナギさんはもちろん読んだことありますよね?」
ヤナギさんと僕とは、一ヶ月と1週間ほど前にひょんな事件をきっかけにして出会った。それから数週間の間に起こった事についてはここでは詳しく話さないが、とにかく僕は命に関わるような出来事に遭遇し、すんでのところでなんとか九死に一生を得た。その時ヤナギさんに色々と手助けをしてもらった縁で僕とヤナギさんは今一緒にいる。
金髪とピアスが特徴的なぱっと見ギャルっぽい雰囲気のヤナギさんの本業はなんと推理小説作家である。それも結構な売れっ子の。知り合ってまだ短いからかもしれないが、一緒に行動するようになってもまだこの人は僕にとって謎のままでもある。
さて、ヤナギさんは椅子から立ち上がり僕の寝そべっているソファのところまでやってきて僕が読んでいた文庫本を取り上げた。片手でぱらぱらとページをめくる。
「………」
ぱさり。何も言わずに投げ返してきた。
「…本は大事に扱いましょうよ。一応作家なんだから。やっぱり『晩年』は読んでなかったんですか?」
「私は太宰は一生の内に三冊までしか読まないって決めてるんだ」
「ちなみにその三冊は?」
「『人間失格』『ヴィヨンの妻』『グッド・バイ』」
「…ずいぶんメジャーなとこを選びましたね。まあなんでもいいですけど」
はーあ、とため息をついてヤナギさんはテーブルに戻った。どこか気怠げにペンをくるくると回す。
「……ところでさ、私、君に言うことがあったんだ」
「……なんでしょう」
急にそんなことを言われると身構えてしまう。あまり悪い知らせではないといいのだけど。
「私、明日から旅行に出るんだ。一週間ぐらい」
「…どこにですか?」
僕はとりあえず尋ねる。ヤナギさんが旅行好きの人だと言う事は前から知っていた。本人が事あるごとに話してくれたのだ。なんでも小説のインスピレーションや考証のために頻繁に旅行を行うのが癖になってるそうだ。
「ん、佐渡ヶ島。次に書く小説の舞台にしたいんだよね。それに私日本国内の離島にはあんまり行ったことないから、一度行ってみたかったんだ」
「ほう…そうですか。それは結構な事ですね」
ヤナギさんの口ぶりからして一緒に僕も連れて行ってくれる訳ではないようだ。まあそれは仕方ないだろう。さっき「一緒にいる」とは言ったが、僕とヤナギさんは同棲している訳でもないしそもそも恋愛関係という訳でもない。単にお互い気が合うので共有する時間が多いというだけの関係だ。
「うん。そこでだね、君にお願いがあるのだけど」
「なんですか?」
「一週間のあいだ、君に留守番をしてて欲しいんだ。合鍵は渡しておくから」
次の日の朝、ヤナギさんはスーツケースに荷物を詰めた状態で僕に別れを告げた。マンションの部屋の前で僕に言う。
「そいじゃ、行ってくるね……冷蔵庫の食べ物は勝手に食べちゃって構わないよ。ただし、生ハムとチーズには手を付けないでね。あれはわたし用だから」
食べたらゆるさない、と眼で語るヤナギさん。
「分かりました…。それではお気をつけて」
「うん、それじゃよろしくね…。あ、そうだ」
唐突に何かを思い出したように言う。
「なんですか?」
「私が留守の間、誰かがこの部屋に私のことを訪ねにやってくるかもしれない。でも君はそいつらを全員追い返しちゃって欲しいんだ。一人も部屋に上げたりしなくていいからね」
誰かって誰だろう?と純粋に疑問に思った。言っちゃ悪いがヤナギさんはあまり友達の多い人ではないのだ。間違った方向のコミュ強と言うか、押しは強いのに人間関係は狭い人なのだ。…だがもちろん僕はそんな事は口にしない。
「わかりましたよ。留守の間しっかり僕が番犬をしておきますから安心して旅行に行ってきてください」
分かればよろしい、といった感じでヤナギさんは出立の挨拶を告げるとスーツケースを引っ張って去っていった。
留守番二日目。
……暇だ。ヤナギさんのマンションは僕の住んでいるアパートよりも断然広くて家具も充実していて住み心地はかなりいいのだが、僕は飽き性なのか留守番には一日で飽きてしまった。TVゲームでもすればいいのだけどあいにくヤナギさんはその類のものを部屋に置いていなかった。
「本棚でも漁るか……」
ヤナギさんの仕事部屋に行き、何か面白そうな小説でもないかと本を物色する。さすがに推理小説作家だけあって本棚にはミステリが多いが、純文学も結構充実している。結局僕は本棚の上の方に置いてあった谷崎潤一郎の『細雪』を手に取った。今日はこれをじっくり読むとしよう。
ダイニングに戻ってきて、ソファに寝転がって本を読もうとしたところで玄関のチャイムが鳴った。……誰だ?同じ階の住人の方だろうか。若い男が女性作家の部屋に入り浸ってるともなれば人目を引くのかもしれないが、そこのところは激しく放っておいて欲しい。僕は別にやましいアレではないのだ。……そんな事を考えながらインターフォンに出る。
「あの…、どなたですか?」
「こちら、ヤナギさんのお宅ですよね?あなたは誰ですか?」
……誰ですか?ときた。でも考えてみるとなんと答えればいいのだろう。ヤナギさんの恋人…ではないし、愛人でももちろんない。血縁関係も家族関係も一切ない。まずい、うまい説明の仕方が思い浮かばない。このままでは怪しい奴と思われてしまう。
「あのー、聞こえてます?」
ま、まずい。このままでは最悪どこかに通報なりなんなりされてしまうかも。とりあえず答えよう。
「僕、僕はですね…。その、ヤナギさんの友達のものです。諸事情あって今は留守番中です」
「留守…番…?」
困惑したように答えるインターフォンの声。まずい、色々端折り過ぎた。ますます怪しく思われてるかもしれない。
「すみません、一度中に上がらせてもらっていいですか?少し確認がしたいので」
中に入りたいと要求するインターフォンの声。ヤナギさんには誰にも上げるなと言われていたけど、このままだと僕が怪しまれて不審者扱いされてしまうかもしれない。……しょうがない。一瞬だけ説明のために顔を合わせてすぐに追い返そう。
「分かりました……。鍵開けるんで少し待ってください」
がちゃり。僕が鍵とチェーンを外すとすぐにドアが開いた。
そこに立っていたのはまだ若い青年だった。半袖の白シャツ姿で、いかにも涼しげな格好だ。顔立ちはかなり整っている方で、美青年とも言えるレベルだろう。彼は不思議そうに玄関の内側にいる僕を眺めていた。
「あ…ども…ヤナギさんの友達兼留守番の
自己紹介する僕。……待て。この人は明らかにこのマンションの住人ではない。どうやってオートロックを突破したんだ?
「あのー…。このマンション入り口にオートロックかかってるはずなんですけど、どうやって入ったんですか?」
相手が口を開く前に質問する僕。素朴な質問はなるべく早くしておいた方がいい。
相手は口を開く。
「……住人の人が中に入るタイミングでぴったり後ろについて行ったら入れたよ」
それ、あかんやつでは???
「だ、駄目じゃないですか!そんなことしたら!!」
思わず口に出して言う僕。いや僕だってこのマンションの住人じゃないんだけど、それにしてもこの人は大胆過ぎだ。ギリギリ犯罪だぞ!
「まあまあ、そんなことより、とりあえず中に入れてくれないかな?こんなとこで立ち話もなんだしさ」
「なっ…それは家の人が言う台詞ですよ。なんであなたが……」
僕の言葉を無視して、その人は颯爽とドアの隙間をくぐり抜け、マンションの部屋の中に入ってしまった。
「……ふうん」
ダイニングにまで入ってきて、散らかりっぱなしの部屋を見てその人は呆れたように呟いた。後を追ってきた僕は少し気まずくなる。
「なるほどね……。君がヤナギさんの新しい男ってわけか」
そんな事を独り言でいう謎の来訪者。僕は思わず反論する。
「そんなんじゃないですから…。それにあなたなんなんですか?勝手に人の部屋の中入ってきて」
相手──その青年は気にせず言う。
「僕は
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