牢獄と蛍の光

 ―――平成二十五年、春。


「パパー!行くよー!なにやってんのー!」


「ママ、ちょっと待って!」


 寛がバタバタと玄関にやってくる。


「ネクタイ!……ネクタイ、曲がってるよ」


「ん?」


 そう言いながら、玄関脇の姿見の前でネクタイを直してる。


 後ろ髪がぴょこんと跳ねてるけど……もういいや。


 今日は、美咲の小学校の入学式。


 玄関の外を見ると、

 黄色い帽子をかぶった美咲が、まっすぐこっちを見ていた。


 体と同じくらいの大きなランドセル。

 帽子の下からは、おさげが二本、ぴょんと揺れている。


 ……あんなに小さかったのに。

 ちゃんと、ここまで育ってくれたんだな。


 最近はちょっと生意気にもなってきたけど、

 ご飯を食べさせるのに格闘してた、あの日々からは――少しだけ、解放された気がする。


 美咲が玄関を覗き込んで寛に叫ぶ。


「パパー!行くよー!なにやってんのー!」


 ……私に似たのかな。


 ―――夕方、ダイニング。


 美咲が小学校に入学したタイミングで、私は仕事を始めた。


 子どもの生活リズムに合わせやすいと思って、給食センターでのパートを選んだ。


 久しぶりの仕事は想像以上にきつくて、毎日へとへと。

 育児と家事と仕事が重なって、イライラは溜まる一方だった。


 四月から寛は副編集長に昇格して、帰りがさらに遅くなった。


「美咲ー!スマホ見ながらご飯食べないの!」


「これ見終わったら止めるー」


「ダーメ! 早く食べて。片付かないでしょ!」


「ママだって、ご飯食べながらスマホ見るじゃん」


 ……返しがそれなりに真っ当だから、逆にややこしい。


「ただいまー」


 寛が帰ってきた。


「パパー!」


 美咲はご飯を中断して、椅子から飛び降りると寛に抱きつきに行く。


「はいはい、パパにおかえりしたら、ご飯ちゃんと食べる!」


 美咲に声をかけながら、私は振り返って寛に言う。


「パパ、ちょうどよかった。ソファに洗濯物取り込んであるから、畳んどいて!」


 ―――夜、寝室。


 明日は早めに出勤しなきゃいけない日。

 だから、少しでも早く寝ておきたい。


 隣では、美咲が先に寝息を立てている。


 私はスマホを手に取り、アラームをセットする。


 そのとき、寛が部屋に入ってきて、美咲の反対側の布団にすっと入り込んだ。


「おやすみ」


 ぽつりとそう言ったかと思うと――


 数秒後には、もうイビキをかいていた。


 ……のび太くんか。


 私は苦笑しながら、スマホの画面を伏せて、枕元のライトを消す。


 ……


 ガァアァアァー! ゴォオォオォオー!


 うるさい……


 ……


 眠れない。


 何度寝返りを打っても、イビキの波が耳に残る。


 私は静かに起き上がって、枕をつかんだ。


 そのまま寛の頭をポスッと叩く。


「ちょっと……イビキ、うるさくて眠れないんだけど」


 寛は眠そうに目をこすりながら、何も言わずに立ち上がった。


 そして、そのまま書斎の方へ出ていった。


 それ以来、寛は書斎で寝るようになった。


 ―――平成二十六年、秋。


 ホワイトボードに残された走り書きと、進行表の数字を交互に見比べる。

 寛は手元のメモに赤ペンを走らせながら、ページ構成のラフを描いていた。


「おつかれさまです、副編集長」


 背後の気配に振り返ると、坂口がいつの間にか後ろに立っていて、メモを覗き込んでいた。


「おつかれー」


「どうですか? まとまりそうですか?」


「んー……もうちょっと変化が欲しいけど、出てこないんだよね」


 時計を見ると、すでに二十一時を回っていた。

 外のざわめきはとっくに消えて、フロアには蛍光灯のかすかな唸りだけが漂っている。


「まだ上がらないんですか?」


 坂口がメモから顔を上げ、少しだけ口元を緩めて言った。


「んー……」


 曖昧に返事をした。


「たまには、早く帰って家族とゆっくりしたくないですか?」


 坂口の問いかけに、手を止めたまま、ぽつりと答える。


「……一度入ったら、もう出れないからな」


「出れないって……それ、まるで牢獄じゃないですか」


 坂口が笑った。


 俺も苦笑して、手に持っていたペンをそっと机に置いた。


 蛍光灯の唸りだけが、静かなフロアにぽつんと残っていた。


 ―――自宅前。


 家に帰り着く。


 玄関に近づくと、センサーライトがパッと点灯し、玄関先を明るく照らした。


「あら、こんばんは。今お帰りですか?」


 声のほうを振り向くと、隣の奥さんが通りを歩いていた。


「こんばんはー。そうなんですよ」


「遅くまで、大変ですね」


 にこやかにそう言って、奥さんはそのまま通り過ぎていった。


 ふたたび玄関の前に立ち、ドアノブに手をかける。


 ……入りたくない。


 しばらく、そのまま硬直する。


 何も動かないままの時間が過ぎる。


 やがて、センサーライトがふっと消え、あたりは暗闇に包まれた。


 何分、経っただろうか。


 通りの物陰にセンサーライトが反応して再び点灯する。


「あら……お出かけですか?」


 振り返ると、さっきの奥さんがコンビニの袋をぶら下げて戻ってきていた。


「あー……えっと、コンビニに行こうかと」


 思わず、しどろもどろになる。


「私も今、行ってきたとこ」


 奥さんはそう言って笑いながら、玄関に入っていった。


 ……変に思われたかな。


 そのとき、インターホンが喋った。


「何してるの?」


 茜の声だ。


「あ、いや……隣の奥さんに会って」


「そーなんだ。ちょうど良かった!早く上がってきて、洗濯物畳んで!」


 自然に、ため息が出た。


 ―――翌日の夜。


 編集社から自宅へ向かう帰り道。


 信号をひとつ曲がって、家とは逆方向へ車を走らせる。


 たどり着いたのは、地元ではそこそこ大きなスーパーマーケット――『ハッピーロード』。


 敷地の隅に車を停め、エンジンを切る。


 しばらくそのまま座っていたが、やがてスマホを取り出し、動画を見始めた。


 ふと周囲に目を向けると、他の車の中にも何人か――

 同じようにスマホを手に、じっと画面を見つめている人たちがいる。


 みんな、帰りたくないのかな。


 フロントガラス越しにぼんやりと光るディスプレイの明かり。

 それぞれの顔を、淡く照らしている。


 まるで、駐車場に浮かぶ小さな“蛍の光”のように。


 それは、閉店を知らせる店内放送の“蛍の光”が流れるまで、静かに灯り続けていた。


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