第36話 狗ヶ岳の兆し


バスは山道を登り続け、やがて狗ヶ岳の登山口へと到着した。鬱蒼とした木々に囲まれた登山口には、ひっそりと小さな祠が佇んでいる。空気はひんやりとして、どこか神聖な雰囲気が漂っていた。

水野鳴海は、この狗ヶ岳に、ある確信を持って足を踏み入れていた。古文書を読み解く中で、この地に残る古い祭りの記録と、災いを封じる「海門」との微かな繋がりを感じ取っていたのだ。特に、祭りで用いられたという「魂を鎮める白い花」の記述が、妹・奈緒を苦しめる異質な存在に対抗する鍵になるのではないかと考えていた。

しばらく山道を進むと、鳴海は開けた場所に出た。苔むした石垣が崩れかけたように積み上がったその場所は、古文書に記されていた祭場の跡らしかった。注意深く足元を探していると、ひっそりと白い小さな花が咲いているのを見つけた。それは、古文書に描かれていた花に酷似していた。

「やはり、ここが…」

鳴海は、静かに呟き、その花を丁寧に摘み取った。微かに感じる清らかな香りは、心に安らぎをもたらすようだった。この花を、万が一の時のために保管しておこう。

しかし、花に気を取られていたためか、足元の不安定な岩に気づかず、鳴海はバランスを崩して足を滑らせてしまった。「きゃっ!」

激しい痛みが足首に走り、鳴海はその場にうずくまった。立ち上がろうとするも、痛みが酷く、動くことができない。

「くっ…」

焦燥感と痛みで、額に汗が滲む。しばらく動けずにいると、遠くから、複数の人の話し声が聞こえてきた。

「鳴海さん!鳴海さん!」

それは、女性の声だった。心配そうなその声に、鳴海は微かに希望を感じた。

声のする方を見ると、二人の若い女性が、こちらに向かって近づいてくるのが見えた。一人は、どこか見覚えのあるような、不思議な雰囲気を持つ女性。そしてもう一人は、心配そうな表情で彼女に付き添っている。

「大丈夫ですか!?」

先に駆け寄ってきた、心配そうな表情の女性が、鳴海に声をかけた。

「すみません…足を滑らせてしまって…」

鳴海がそう答えると、もう一人の、不思議な雰囲気の女性が、少し離れた場所から、じっと鳴海を見つめていた。その瞳には、どこか深い悲しみのようなものが宿っているように見えた。

「もしかして、あなたは…水野鳴海さんですか?」

不思議な雰囲気の女性が、静かに問いかけた。その声には、わずかながら、何かを確かめるような響きがあった。

「は、はい…あなたは…?」

鳴海が問い返すと、その女性は、静かに微笑んだ。「私の名前は貞子と言います。あなたの妹さんのことで…少し、気になっていました」

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