川上いむれ

第1話

 その人は目が見えなかった。少なくとも僕はそう聞いていた。

 僕はその日、ある洋館の門の前に立っていた。春の気持ちの良い輝くような日で、桜の花びらがあたりに舞っていた。


 ……僕は数秒間だけ迷ってから門扉を開け、中に入った。飛び石のように配置された石畳を歩いていき、庭を右に折れて館の反対側に出た。

 その人は、そこにいた。日の当たる庭に置かれた椅子に腰掛け、パラソルが落とす薄い影の中で、誰かを待っていた。

 僕は芝生の上に一歩を踏み出した。……少し考えてから、僕はわざと地面に落ちていた小枝を踏んだ。


 ぱきり


 その微かな音に、その人は反応した。顔をこちらの方向にむけ、微笑む。

「はじめまして。本当に来てくれるとは思いませんでした」



 僕は何者でもない。ただの語り部だと思ってくれればいい。ただ、その日の僕には役目があった。僕の友人の一人にこう頼まれたのだ。彼の親類の目の見えないお嬢様の無聊を慰めてやって欲しいと。彼女の好きな事は三つ。小鳥の歌を聴くこと、物語を読み聞かせてもらう事、それとチェスだ。

 僕はチェスが出来た。人並み以上の腕前ではないけど、人並み以上にはチェスを指してきた自負があった。そういうことなら断る理由はなかった。



 僕は椅子と椅子の真ん中に置かれていた丸いテーブルを挟んで、彼女の向かい側に座った。

「……はじめまして。イシガミの紹介で来た【☓☓☓☓】です。今日はチェスの相手を努めさせていただきます」

 僕は頭を下げた。その後で目の見えない人の前でお辞儀をしても、それは見えないのだと気づいた。

「今日は遠いところからわざわざ来てくださって、ありがとうございます。私のわがままに付き合わせてしまって申し訳ありません」

 風が吹いて来た。一瞬パラソルの柱が大きく揺れる。彼女の髪もさらさらと風に流れて揺れた。


 使用人の方がチェス盤のセットを運んで来てくれた。僕は一応たずねる。

「あの……どのようにプレイされるんですか?あなたが口頭でマスの座標を言ってそれに合わせて駒を動かす形になるんでしょうか」

 いわゆる目隠し将棋のやり方だ。

「ええ、そうします。使用人が私の言ったマスに駒を動かしてくれますから、あなたは自分が動かした駒の座標を言ってください」

 僕はポーンを手にとって、聞いた。

「黒と白、どちらを選びますか?」

 彼女は微笑んで答えた。

「黒にします。いつも黒を選ぶんです」


 チェスは白が先手だ。つまり白の指し手の方が少しだけ有利だ。加えて彼女には目が見えないというハンディキャップがあるはずだった。しかし僕は敗けた。三局チェスを指して三回とも五十手以内にチェックメイトされた。僕は降参することにした。

「……これほどお強いとは思っていませんでした。失礼なことを言うようですが」

 彼女は謙遜することなく肯定で答えた。

「子供の頃からチェスが好きだったんです。目が見えなくなる前から」

 庭の木々にはたくさんの小鳥が止まっていて、せわしなくその鳴き声を振りまいていた。

「そうですか……道理で」

 その時、庭に生えていた林檎の木から数羽の小鳥が舞い降りてきて、テーブルの上に止まった。雀とうぐいすだ。彼らは怖がることなくテーブルの上を跳ね歩いていた。

「小鳥に好かれていらっしゃるんですね」

 僕は跳ね回りながら地鳴きをする小鳥たちを見て言った。でも、彼女は首を振った。

「いいえ、好かれている訳ではないんです。ただ、恐れられていないだけ。この子たちは私が危害を加えられないのを知っていますから」

 目が見えませんからね、と付け加える。

「……それを好かれていると言うんではないですか?」

 彼女は口元で微笑んで答えた。

「いいえ、違うんです。それは好かれているのとは別のことなんです。いずれあなたにも分かりますよ」

 まるで僕よりも何年も生きているかのようにその人は言った。

「……私の母も、鶯を飼うのが好きでした。子供の頃の私の一番の友達は、人ではなく鶯だったと思います。昔は、お金持ちの間で鶯を飼ってその声の美しさを競わせることが流行っていたのですよ。今はもう廃れましたけどね」

「はあ…何かで読んだ記憶があります」

 戦前くらいの話だったと思う。風流だけどもう古い慣習だ。

「私にはお気に入りの鶯が一匹いました。美しい声で鳴く子でした。でも、私はもっと美しい声にさせたかったんです。」

 彼女は喋りながらも耳をそばだてているようだった。まるで聞かれてはいけない話をしているように。

「小学生だった私は、誰かに聞いたことを実行する事にしました。小鳥に蛇の粉を飲ませると、綺麗な声になると言うんです」

「へえ……そんな事があるんですね。面白いです」

 彼女は少し表情を曇らせた。そのまま続ける。

「私は出入りの職人さんに頼んで、蛇の粉の薬を買ってきてもらいました。それを私の鶯に飲ませたんです」

「……それでどうなったんです?鶯はもっと綺麗な声で鳴くようになったんですか?」

 彼女はかぶりを振った。

「鶯は鳴きました。三日三晩鳴き続けて、そのまま死にました。私は彼の遺骸を森に埋めて、二度とそこには立ち寄りませんでした」


 その時、小鳥たちがチェス盤の上に飛び乗ってきて、駒を倒していった。ポーン、ルーク、ナイト、ビショップ、クイーン……倒れた駒が地面に転がっていった。

 僕は口を開く。

「それは悲しかったですね……。無知というのは、時として残酷なものですから」

 この場で言うにふさわしい言葉かは分からなかったけど、僕には他に言うことも見つからなかった。彼女は少し困ったように笑って、話を続けた。

「その時の事は、最近まで忘れてしまっていたんです。都合の悪いことから忘れていくのが私の悪い癖なんでしょうね」

「………」

 僕は喋らなかった。

「それから二年して、私は悪性の熱病にかかり、視力を失いました。今はわずかな楽しみにうつつを抜かして、少しずつ日々を生きています。もっとも、何もしていない訳じゃないですけどね」

 僕は腕時計を見た。この庭を訪れてから結構な時間が経っていた。そろそろお暇しようと思った。

「それじゃ、僕はそろそろ行きます……。またチェスの相手が欲しくなったら、いつでも呼んでください。その時には今よりは強くなっておきますから」

 僕は笑って言った。笑顔は相手に見えないかも知れなかったけれど、彼女も微笑んでくれた。

「はい、お待ちしています。いつでも」

 僕は踵を返して元来た石畳の道を去っていった。小鳥たちが数羽僕の頭を飛び越えていった。僕は鉄の門扉をくぐり抜け、振り向かずその館を後にした。



             

      

                 ─完

 



 

 

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川上いむれ @warakotani

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