幻の甘味

凪 志織

幻の甘味

『至急、大学の図書館地下一階へ来てほしい』

と彼から連絡があったのは昼過ぎのことだった。


 その日は、大学の講義が午後からだったので昼近くまで寝てシャワーを浴びコーヒーを飲んで一服しているところであった。

 言葉少ないその一文に緊急性を感じ身支度を簡単に済ませ上着を羽織ると家をでた。

 大学までは徒歩十分程度の距離。

 早足で歩きながら手に持ったマフラーをさっと首に巻く。

 吐く息は白く灰色の曇り空に同化して消えていった。


 大学の図書館の地下一階には古い資料が閲覧できるデータベースがある。

 研究論文を書くなど膨大な資料を必要とする人間くらいしかこのフロアを使用するものはいない。

 地下一階へ降りると、彼はこちらに背を向ける形でパソコンの前に座っていた。

「どうしたの?」

 普段と変わらないトーンを装いながら彼のもとへ近付く。

 彼はこちらを見ることなくパソコンの画面を凝視したまま言った。

「大変な発見だ。これをみてほしい」

 彼の見ている画面をのぞき込む。

 そこには昔のCMが流れていた。

 やけに強い太陽光の下、私たちと同年代くらいの薄着の女性がカップを手に持ち中に入った白い食べ物をスプーンですくって食べている。

「これが何か?」

「めちゃくちゃうまそう」

 はい?

「至急来てほしいというから髪の毛半乾きのままきたんだけど」

 彼はその時はじめて顔をあげた。

 こちらを二秒ほどみつめ「大丈夫、きれいだよ」と言った。

 いや、そうじゃない。そういうことじゃない。

 言いたいことはいろいろあったのに、予想外の一言に不覚にもどぎまぎしてしまい「な?な!?」とまぬけな声しか出せなかった。


 そんな私をよそに彼は再び画面に見入っている。

 彼が真剣な顔をしているので仕方なく私も画面をもう一度のぞき込む。

「屋外でこんな薄着でいられる時代があったんだな。昔は季節が四つだったなんて信じらんないよ」

 映像の女性の服装からして時代はまだ地球が温暖だったころの世界であることはすぐにわかった。

 一年を通して平均気温が10℃の世界で暮らす私たちには当時の彼らの生活は興味深いものであった。

「その白いものはなんていう食べ物なの?」

「さあ、昔の言葉すぎてわからない」

 もう一度CMを再生してみる。

 ぱっと見、乳製品のようだ。

 カップのふちに近いところは溶けているようにみえる。

 冷やして固めて作られているのか。

「絶対甘いやつだよ。こんなに幸せそうに食べてるんだもん」

 白くて甘くて冷たくて、口の中へ入れれば溶けてなくなる。

 そんな夢みたいな甘味を想像し思わず唾を飲み込んだ。

「こんなの作ってみたいよな」彼が呟く。

 私は彼にずっと聞けずにいたことがあった。

「ねえ、大学卒業したらどうするの?」

「パティシエになるよ」

「やっぱり海外に行くの?」

「うん」

「そういうのって国内でも勉強できるんじゃないの」

「本場じゃなきゃ学べないこともある」

「もう確定なの?」

「うん」

 次の言葉を探しているうちに彼の方が先に口を開いた。

「昔ってこんなに空が青かったんだな」

 最近は曇りか雪の日がほとんどだ。

 青い空をみたのはいつだっただろう。

 私は地球が温暖だったころの空を想像した。

 青い空には白い雲が映えてきっと雨が降ったあとのカラッと乾いた空もきれいだったんだろうな、と。 

 パソコンの画面の中の彼女、青空の下ほおばるそれは青春そのものを味わっているようだった。


 今だって悪くないはずだ。

 紛争も貧困も世界から消えた。

 不治の病といわれた病気も今はもう存在しない。

 青い空はなかなかみれないけれど夜は星がきれいだ。


 過去にあって今はないもの。

 今にあって過去にないもの。

 そして、これから遠くへ行ってしまうもの。


「またすぐ戻ってくるよね」


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幻の甘味 凪 志織 @nagishiori

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