紫乃美怜

 私の会社に、毎日傘をさして出社してくる人がいる。シバタさんという、三十代後半くらいの品のある男性だ。その傘は日除けというわけでもなさそうで、晴れの日も雨の日も、曇りの日も雪の日も、とにかくシバタさんは天気に関係なく毎日傘をさしていた。会社近くのコンビニにちょっと昼食を買いに行く時でさえ、シバタさんは必ず傘をさす。同僚の人が一度からかったことがあったけれど、シバタさんは眉尻を下げて、困ったように微笑むばかりで、決して傘を手放すことはなかった。

 何か深い訳があるのだろうか。私はどうしても気になってしまって、とうとう本人に直接聞くことにした。

「あのう、差し支えなければ……」

 と前置きして尋ねる私に、シバタさんは少しばかり悩んで、それから周囲を確認して、いつもより声のトーンを落とすと「実はね……」と話し始めた。


 始まりはシバタさんがまだ大学四回生の頃だった。

 就活の為にスーツを着ては、対して興味もない企業を回って、徹夜で暗記した口上をも本心かのように並べる。そうやって日々慣れない革靴を草臥くたびれさせていたらしい。

 ある朝、いつものように面接先へ向かおうと玄関を出た時、ふと雨が降っていることに気が付いた。降り始めたばかりのようなごく小降りの雨は、よく目をらさないと気づかない程で、常ならば多分、無視して家を出ていたことだろう。

「けれどまあ、面接って些細ささいな事まで見られるだろう? 何が相手の心証しんしょう を悪くするかなんて考え出すと、本当切りが無かったな」

 そう言ってシバタさんが苦笑いするのに、私も自分が就活をしていた時のことを思い出して頷いた。とにかく神経ばかりすり減らすのだ、就活というものは。

 シバタさんはその日、念の為にと思って傘を持って外に出たらしい。そして、その判断はどうやら正解だった。雨脚は次第に強くなって、駅に辿り着く頃にはもうすっかり土砂降りの雨になっていた。

 傘を畳みながら、ふと周囲を見渡す。そこには傘を持っている人なんて一人もおらず、そういえばと、今朝の天気予報で「降水確率は0%。今日は一日快晴です」と言っていたことを思い出した。

 だからその時は、自分一人だけが傘を持っていることも大して不思議に思わなかったらしい。

「違和感に気づいたのは面接を終えて、帰ろうと会社を出た時だった。誰も傘をさしていなかったんだよ。――外は相変わらずの大雨だっていうのに」

「さっきまではんでいたとか?」

 私の言葉にシバタさんは首を横に振る。

「それにしても目の前の光景はあまりにも不自然すぎたんだ」

 小降りならまだしも、視界を覆うほどの雨。だというのに屋根を求めて走る人もいない。

 いくら天気予報が晴れだったからって、これだけ降っていたらもっと傘を持っている人がいてもおかしくないはずだ。今時、コンビニにだって傘は置いてあるのだから。

 でも、誰も傘をさしていない。

「いや、正確に言うと、全くってわけじゃあないんだ。傘をさしているご婦人を一人見つけてね。つい声をかけてしまった。『今日は酷い雨ですよね?』って」

「ご婦人はなんて?」

「眉間にしわを寄せて、すごく迷惑そうな顔で言ったよ。『今日は快晴です』と」

 その婦人がさしていた傘が実は日傘だったってことに思い立ったのは後からだった。

 ふっと、空を見上げる。

 そこには。では、今もなお視界から消えないこの雨は一体どこから降っているというのだろうか。

 気づいた途端、先程まで聞こえていたはずの傘を叩くパラパラという雨粒の音も、靴底をじんわりと濡らす嫌な感覚も、すっと遠ざかっていった。

 自分は白昼夢でも見ているのかもしれない。日々のストレスできっと疲れているのだろう。

 目をこする。視界を覆う雨は相変わらずだったが、傘を閉じて帰路についた。身に纏うスーツが次第に濡れて重くなっていく感覚は気持ち悪いが、気づかないふりをする。

 帰宅後に見たスーツは少しも濡れていなかった。


 次の日、目が覚めると、まだ雨は降っていた。

 傘を持って外に出る。怖くて天気予報は見られなかった。道行く人々は、やはり誰も傘をさしていない。また、自分だけが雨の中に取り残されている。

 傘を閉じて駅に向かった。ぐっしょりと服が濡れていくような感覚だけはあって、気持ちが悪かった。

 次の日もそのまた次の日も、毎日のように雨は降り続いた。けれどもまあ、慣れてしまえばそれも、なんてことはない。これは幻覚なのだと自覚すれば、降りしきる雨も次第に気にならなくなっていった。


 ある日、久しぶりに行った大学で、友人と話していた時のことである。

 友人の頬にうっすらと白い筋のような汚れを見つけた。そのことを教えてやると、友人が服の袖でガシガシと頬を拭い始める。けれど汚れはなかなか落ちず、友人はとうとうトイレへと立った。

 程なくして友人は帰って来た。「何にもついてねぇじゃんか」と言いながら。――その頬には先程よりもくっきりと白い筋が張り付いているというのに。

 ――雨だ。そう、直感的に思った。

 それからは、道行くどの人の顔にも、白い筋が浮かび上がって見えるようになった。その筋は日毎ひごとに濃く、くっきりと見えるようになり、やがてあることに気がついた。

「溶けていたんだよ、人間が。丁度酸性雨の中に立つ銅像みたいに。白い筋がつーっと、幾筋も幾筋も流れてね。そうやって皆、少しずつ……少しずつ……」

 その度合いはまちまちだったが、大人も、子供も、男も、女も、例外はない。表情も分からないほど顔の溶けた人もいた。

 ある時には、身体のほとんどがどろりと溶けた人が、目の前でぼとりとその首を落とすのを見た。いい加減、異様な光景にも慣れていたと思っていたが、その時ばかりは流石に悲鳴を上げてしまった。


 誰にでも、ある日突然に巻き込まれることはある。

 知りたくないことを知ることだってある。気付いてしまったら、もう無視をすることは出来ない。

「でも、そういうものだから。受け入れるしかないんだ」

 シバタさんは、少し困ったように、眉をハの字にして笑った。

 丁度、昼休みの終わりを告げるアラームが鳴る。シバタさんは「他の人には内緒だよ」と言って自席に戻った。

「完全に溶けてなくなったら、その人はどうなるんですか?」と私は聞くことができなかった。しかし、シバタさんが毎日欠かさず傘を差す所を見るに、知らないままでいいのだと、そう、思う。


 シバタさんは、今日も傘をさして帰宅した。

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紫乃美怜 @shinomirei

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