喫茶夢心地〜夢と現実の境界線〜

御猫様

第1章 境界線

第1話 雨と境界線と

第1話:雨と境界線のブレンド


・・・


 雨は静かに降っていた。

 傘を差していても意味がないほど、風に煽られ、首筋から染みてくる冷たい水。


 ユウト・クサナギは、駅前のビル街を離れ、地図にも載らない細道を歩いていた。

 肩を濡らしながら、彼は目的地を探す。息が白い。

 何度もスマホのメモを見直したが、地名はどこにもない。にもかかわらず、足は自然と、古びた坂の前で止まった。


 坂の下、薄暗いレンガ造りの建物。そこだけ時間が違うように、雨音すら届かない。

 入口の上には、風に揺れる小さな木製のプレート。


 『喫茶 夢心地』


 「……ここ、か」


 呟きながら扉に手をかけると、カラン、と鈴の音が鳴った。


・・・


 店内は温かな空気に包まれていた。

 ジャズが流れ、オレンジ色の照明が古木の家具を照らしている。

 本棚、観葉植物、壁掛けの古時計。どれも手入れが行き届いていた。


 そしてカウンターの奥には、ひとりの男がいた。


 黒のシャツに灰色のエプロン。背筋はまっすぐで、仕草のひとつひとつが静かで無駄がない。

 年齢は——見た目では測れない。だが、どこか「人間離れした雰囲気」があった。


 「いらっしゃいませ。お好きな席へ、どうぞ」


 その声は、不思議と耳に残る。

 低く、優しく、まるで記憶の底で聴いたことがあるような響きだった。


 ユウトは言葉に詰まりながらも、窓際の席に腰を下ろした。


 「……あんたが、“マスター”?」


 「そう呼ばれています。時雨と申します。クサナギ・ユウトさん」


 その名前を、まだ一言も名乗っていないのに。


 「……なんで俺の名前を?」


 「この店に来る方々のことは、大抵……分かるようになっています」


 冗談でも嘘でもなかった。彼の声は、まっすぐで、静かだった。


 ユウトは、内心で首を傾げながらも、問いを投げる。


 「……手紙が届いた。『夢心地へ来い』って。それも……俺が“あの日”見たことを知ってるような内容で」


 「ええ。あなたは“見てしまった”のです。世界の歪みを」


 時雨は、カウンターの奥でブレンドコーヒーを淹れ始めた。


 「まずは、ゆっくり落ち着いてください。言葉よりも先に、味が記憶を呼び覚まします」


 やがて、カップが運ばれてきた。

 香ばしさと微かな甘みのある香り。それだけで、ユウトの心が少しほぐれていく。


 「夢心地ブレンドです。“夢と現実の狭間で一番近い味”と呼ばれています」


 ユウトは黙って口をつけた。

 温かさが、舌に、喉に、そして頭の奥に届いていく。


 ——その瞬間。


 “あの夜”の光景が、フラッシュバックのように脳裏を駆け抜けた。


 燃えるダンジョン。仲間の悲鳴。崩れた天井。

 血だまりの中に立っていた、あの“人間ではないもの”。

 記録にはなかった。誰も信じてくれなかった。

 だが、ユウトは確かに、それを見た。


 「……ッ!」


 カップを置く手が震えた。


 時雨は、静かにそれを見つめていた。


 「クサナギさん。あなたが見たものは、ほんの一片です。

 この世界には、幾重にも隠された“層”がある。現実と、夢と、虚構と……そしてその隙間」


 ユウトは息を呑んだ。頭が、混乱していた。


 「じゃあ……あれは、本物だったんだな。あいつも、俺の記憶も……」


 「もちろん。ここでは、どんな記憶も否定されません」


・・・


 外ではまだ雨が降っていた。だが、音が遠い。

 まるでこの店だけが、別の時の流れにあるようだった。


 「あなたは、まだ混乱しているでしょう。でも……大丈夫。

 この店でなら、少しずつ、すべてが繋がっていきます」


 そう言う時雨の横顔には、微かに疲れたような影が差していた。


 ユウトは、気づいた。

 この男もまた、何かを背負っているのだ、と。


・・・


 「……また来ても、いいか?」


 ユウトの声は、震えていた。けれど、目は真っ直ぐだった。


 「もちろん。夢は、何度でも見るものですから」


 時雨は、微笑んだ。

 その笑顔の裏に、どこか切なさが滲んでいた。


______

反応があるようでしたら2話目以降も執筆いたします




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