第40話:演技の意味
午前の講義。私はいつものように、空いていた後方の席に鞄を置いた。教室にはまだまばらに人がいるだけで、少し肌寒い空気が残っている。
ノートを広げていると、視界の隅にすばるの姿が映った。前の方の列で、静かにペンを動かしている。相変わらず、一人でいるのが自然な雰囲気。
講義が始まり、教員の声がマイク越しに響いた。
「……言葉は、単に情報を伝えるだけではなく、関係をつくるための媒体でもあります。伝わることで安心が生まれ、伝わらないことで不安が生まれる」
黒板に書かれたキーワードを写しながら、私はふと手を止めた。
──安心、か。
ノートの余白に、何気なくメモをとる。
“誰かの隣にいられる声”
この前みんなで行った、夜のピクニックを思い出す。言葉が少なくても、そこにいたみんなが、同じ空気を吸って、同じ夜景を眺めていた。
私は、あんなふうに誰かのそばにいられること、声を出せていたことがうれしかったんだと思う。
──演じることが、誰かの心をそっと包むものになるなら、それはきっと悪くない。
そんなふうに思ったのは、初めてかもしれないし、本当はどこかでずっと思っていたのかもしれない。
* * *
その日の夜。自室のデスクに座りながら、私は配信ソフトを立ち上げる。今日は特別な企画も、話題もない。ただ、いつものようにリスナーと触れ合いたいという気持ちだけがある。
マイクの位置を微調整し、軽く深呼吸をひとつ。
あの夜感じたことを、言葉にしてみたいと思った。
あの時のように、誰かと同じ景色を見ているような感覚。隣に座って、ただ静かに過ごすような空気。
演じることって、誰かのためにできるものなんだ。
そのことが、今の私には、少しだけ誇らしく思えた。
配信開始まで、あと少し。
私は小さく息を吸って、マイクに向かって座り直す。
* * *
「星が瞬くそのすきまから、こんばんは。星霧メルナです。今日も静かな夜を一緒に過ごしましょうね」
マイクに向かって微笑むように言葉を落とすと、画面のコメントがゆっくりと流れはじめる。
《こんばんは〜》
《今日も来たよ》
《静かな声を待ってた》
《癒しの時間、始まった…》
「ふふ……みなさん、ありがとうございます。おかえりなさい、ですね」
静かな夜。部屋の明かりを少しだけ落として、私は椅子に深く座り直す。
「今日は……なんていうか、言葉を話すことが自然に感じられる夜です。あたたかい紅茶を用意して、心が静かに整っていくような、そんな時間……」
《わかる気がする》
《もうこの雰囲気が落ち着く》
《いつもの夜が戻ってきた感じする》
「そう言っていただけると、私も安心します……」
言葉を選びながら、少し間を置く。
その沈黙もまた、ここではノイズにならない。
「この間、たまたま……夜の帰り道で、空を見上げる機会があって。雲の隙間から、ぽつんと星が見えたんです」
「ただそれだけなのに、すごく印象に残っていて……誰かと並んでその星を見たら、もっと綺麗に感じられただろうなって、ふとそんなことを思ったんです」
《素敵》
《わかるなぁ》
《一人で見る星もいいけど、誰かと一緒だと特別》
「ええ、そうかもしれません。……隣に誰かがいるって、何かを分け合えることなんだなって」
「同じ空を見てるだけで、少しだけ心が近づける。そういう時間って、きっと大事ですよね」
《メルナと同じ夜を過ごしてる感じがする》
《今夜もありがとう》
《話し方が優しくて安心する》
「ふふ……こちらこそ、来てくれてありがとうございます。……最近、自分でも少し不思議なんです」
「ただ、誰かの夜にそっと寄り添えたら、それでいいって。誰かが、静かに呼吸できるような、そんな声でいられたら──って思う気持ちが段々と強くなっている気がします」
《メルナの声、俺にも届いてるぞ!》
《ほんとに安心する》
《そばにいてくれる感じがする》
「……ありがとうございます。そうやって言ってもらえることが、何より嬉しいです」
小さく息を吐いて、マイクに手を添える。
「今夜、この場所にいてくれてありがとうございます。……あなたの夜が、やさしく包まれたものになりますように」
そう囁くように言いながら、私はそっと目を閉じた。
この声が、誰かの隣にそっと届いていることを願って。
* * *
配信を終えた部屋は、少しだけ広く感じられた。
いつも通りの、変わらない夜のはずなのに──静けさの質が、ほんの少しだけ違う気がする。
私はマイクから手を離し、背もたれに身体を預けた。
息を吐く。小さく、長く。胸の奥に残っていたわずかな緊張が、ゆるやかにほどけていくのを感じた。
──声が、誰かに届くって、こういうことなんだろうか。
誰かのために声を出すこと。
それが、いつの間にか、自分の心まで救ってくれるような──そんな感覚だった。
独りよがりじゃない。
完璧でなくてもいい。
ただ、誰かの隣に、そっと寄り添えたら。
それだけで、今の私は、少しだけ前に進める気がした。
──演じるって、ずっとそういうことだったのかもしれない。
届けるために、じゃなくて。
そばにいるために。
私は窓の外を見た。
雲の隙間に、かすかに星が見える。
今夜はよく眠れそうだった。
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