さら という存在
第7話:フィールドワーク班決め
冷たい水で手を濡らし、炊きたての白ごはんを一口分、手のひらに乗せる。
いつものように、塩と混ぜた鮭フレークを中央に入れて、指先で優しく握る。
手の熱がじんわり伝わるのが、なんとなく好きだ。
今日のおにぎりは、鮭と昆布。
ひとつ、またひとつ。形は揃っていなくても自分の手にしっくりくる感覚が、だんだんと整ってくる。
お弁当箱に詰めて、台所のカウンターにそっと置く。
そのまま電気ポットを起動し、お湯が沸くまでのあいだに洗面台で顔を整える。
肌を軽く整えてナチュラルメイク。
リップは薄めに、まつ毛は軽く上げるだけ。
部屋の窓から朝の光が差し込んでくる。
気温はもう春の終盤。駅までの道に並ぶ木々が、少しずつ初夏の空気を感じる季節。
私はお気に入りのトートバッグを肩にかけて部屋を出た。
* * *
大学に着くと、いつもより少しだけざわついた空気があった。
午前の講義は全学年対象のフィールドワークガイダンス。
1年生は今日から実践型演習の一環として、本格的なグループ活動に入る。
「清華おはよー。ガイダンスこの教室だよね?」
キャンパスの角を曲がったところで、美優が手を振ってくる。
「うん、おはよう。行こっか」
美優とは、最初のガイダンスで少し話しただけだった。
それが今では、同じ講義をいくつか一緒に受けるくらいの仲になっている。
教室の中はすでに半分以上が埋まっていた。
私はいつも通り、後ろ寄りの壁際の席を選び、美優は隣に座る。
しばらくして教壇に1人の男性が立った。
「えー、皆さんおはようございます。言語情報学科フィールド演習担当の
小寺教授は、黒縁眼鏡をかけた細身の中年男性だった。
説明は手短ながらも要点がまとまっていて無駄がない。
「この講義では、言語やメディアに関するテーマを自ら設定し、情報収集・分析・発表までをチーム単位で行ってもらいます。期間は来月末まで、各週の活動記録が成績評価に反映されます」
スライドにはスケジュールと評価項目、そして“グループ内での役割分担の推奨”とあった。
教授は間をおいてから、プリントを配るよう指示した。
「チーム分けは学籍番号順で4人ずつ。あらかじめ割り振ってありますので、名簿を見て確認してください。なお変更はできません」
私は配られた紙を見下ろす。
グループNo.7
学籍番号:***0025
***0026
***0027
***0028
──このメンバーか。
美優以外は名前に覚えはなかった。私は視線をそっと上げる。
誰がどの名前か、まだわからないけれど──今日からこの4人で、何かをひとつ作り上げていくことになる。
小さく息を吐いて、私はプリントを畳んだ。
* * *
教室の前方で小寺教授が「じゃあ、今日はここまで」と締めの声を上げると、学生たちが三々五々動き始めた。
手元のプリントに書かれた番号をたどりながら、少しずつ班ごとに集まり始めている。
私は周囲を見回して──美優の声に気づいた。
「ねえ、たぶんこの辺だよね」
「うん。No.7だもんね」
私が返すと、すぐ横からもうひとつの声が飛び込んできた。
「ボクも7番だった。白石由梨。よろしくね」
すっと差し出された手と、眼鏡越しの視線。
落ち着いた声だけど、どこか芯がある。言葉選びも静かに的確だった。
「よろしく。私は如月清華」
「私は川野美優。あ、清華とは同じ講義けっこう取ってて、よく一緒にいるんだ」
そう言って美優が笑うと、白石さんも小さくうなずいた。
そして──もうひとつの視線が、少し遅れて近づいてきた。
「……有原すばる。よろしく」
短い言葉だったけど、ちゃんとこちらを見ていた。
クールな印象だけど、無愛想というよりは“余計な言葉を削ってる”感じ。声のトーンは低く、だけどきつくはない。
「よろしく、有原さん」
私がそう言うと、有原さんは「うん」とだけ返して、横に立った。
* * *
しばらくの沈黙を、美優が柔らかく壊す。
「せっかくだし、今夜どこかで集まらない? ちゃんと顔合わせって今日が初めてだし」
白石さんがふっと笑った。
「うん、いいね。いきなりグループワークで進めるのも大変だし、ちょっと話しておくのは大事かも」
「……そうだね」
私も自然に頷いていた。
有原さんはと言えば、一瞬だけ迷ったように目を伏せたあと──
「……別に、いいよ。予定ないし」
そのちょっと間が空いた返事が、逆に本音っぽかった。
「じゃ、メッセージのグループ作ろっか。時間と場所はあとで決めよー!」
「賛成。ボク、グルチャの通知はそこまで気にしないけど、ちゃんと見るから」
「うん、それでいいと思う」
気づけば、4人の会話はごく自然に回っていた。
まだお互いのことを何も知らない。
でもこの“ちょうどいい距離感”が、少しだけ心地よかった。
* * *
待ち合わせ場所は、キャンパス近くの小さなファミレスだった。
駅から徒歩数分。賑やかなメイン通りを1本外れた、少しだけ落ち着いた雰囲気の店。
私は店の外に立ち、入口脇のメニュー看板に目を向けていた。
どこにでもあるような日替わり定食と、パフェやドリンクのセット。
べつに迷っているわけじゃない。ただ、誰かを待つときの“間の持たせ方”として、ちょうどよかった。
ほどなくして、美優の明るい声が聞こえた。
「清華〜! 早いじゃん!」
「うん。外にいたほうが……入りやすいかなって」
そう言いながら、私は自然に歩調を合わせた。
美優はそのまま入口に手をかけ、扉を押す。
店内は思ったよりも空いていて、私たちは店員に案内されて4人掛けのテーブル席へ向かった。
「ごめん、待った?」
後から現れたのは白石さんだった。
チェック柄のカーディガンを羽織っていて、首からイヤホンが下がっていた。
「ちょうど今来たところだよ」
「よかった。あ、これ見て。さっきまで聴いてたネットラジオ、めっちゃ面白くてさ」
席につきながら、白石さんはスマホをチラッとこちらに見せた。
話し方は相変わらず落ち着いていて、でもどこか情報に飢えている感じがした。
「如月さんも、たまにラジオ聴いたりする?」
「……たまに、夜の静かなときに」
「うんうん、わかる。夜ってそういう気分になるよね」
それから、少し遅れて有原さんが現れた。
「……あ、席……あった」
「有原さん、こっち!」
美優が手を挙げて合図すると、有原さんは軽く会釈して席に着いた。
黒いジャケットに白いシャツ。シンプルな格好なのに、どこか目を引く雰囲気があった。
「ごめん、ちょっと迷ってた。店、似てるの多くてさ」
「いや、それめっちゃわかる」
白石さんが笑いながら相槌を打った。
「私も最初、違う系列のカフェ入っちゃったことあるし」
「……あるよね、そういうの」
有原さんの返しは短いけど、微妙な間と抑揚が独特で、意外と空気を和ませる力があった。
* * *
「改めてよろしくね、みんな!」
美優がドリンクを掲げてそう言うと、私たちもそれに倣ってグラスを軽く持ち上げた。
「フィールドワーク、来週から本格スタートだけど……なんか緊張するよね」
「まだ何やるかも掴めてないもんね。課題提出だけって聞いてたのに、まさかこんなに本格的な班行動だとは……」
「でもまあ、グループでやるほうがモチベ出るかも」
「……私人見知りだけど、こうして喋ってみると悪くないかも」
それぞれの言葉が、テーブルの上にポンポンと置かれていく。
気づけば、みんな自然に笑っていた。
「ね、今夜集まってよかったよね。なんか、もうちょっとだけ話してたい気分」
美優がそう呟くと、白石さんも「うん」と頷いた。
「わかる。こういう“何も決めない集まり”って、案外大事だと思う」
「……うん、私もそう思う」
気取らず、無理せず、肩の力を抜いていられる時間。
このくらいの距離感なら──うまくやっていけるかもしれない。
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