第4話 上覧試合


 その時、表の方から「和尚様」と呼ぶ女の声がした。


「うむ、そよじゃな。上がってくるがよい」


 やがて奥の間に現れたそよは、そこに座す陸郎の姿に眼を留めた。


「あら、陸郎さまおいででしたの。お邪魔でしたでしょうか……」

「いや、私の方の話はもう済んだ。それより、そよ殿こそどうしたのだ?」

「和尚様にお借りした本を、お返しにあがったのです」


 そう答えながら、そよは少し恥ずかしげにうつむいた。


「ほう、そよ殿は本など読むのか」

「御伽草子などの……女子どもの読みものですわ」

「いや、そよは熱心じゃぞ。本を借りにくる折には、仏典の読み方など学んでいき、説話の部分を書き写したりしておる」


 陸郎は、それまでに知らなかったそよの意外な一面を知り、胸中で嘆息した。そんな陸郎の様子にそよは、はにかんだように視線をそらしてうつむいた。


「――それでは和尚様、私は失礼します」


 陸郎が退室する様子を見せると、そよもそわそわと、「和尚様、わたくしも後日改めまして……」と座を立った。曇安は軽く微笑むと、頷いて二人を見送った。


 先を歩く陸郎に連れ添うように、そよは少しだけ後ろを歩いていた。二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。二人きりになったのは、あの日以来だった。


 秋はさらに深まっていた。辺りの樹々は色づいて、時おり、落葉が風に舞って二人の間をかすめていった。


「あの……」


 そよが口を開いた。陸郎は歩みを緩めながら、そよを少し振り返った。


「あの時の母親、一命はとりとめました」

「うん、私も聞いている。そなた、母親の手当てを手伝ってるらしいな」


「手当てというほどのものでは……。先生に教えられたとおり、数日に一度、膏薬を張り替えて身体を拭いてるだけです。あそこの女の子――ゆきちゃんが可愛くて」

「――偉いな、そよは」


 ふと、そう洩らした後に、陸郎は以前のように、そよを呼び捨てにしたことに気がついて黙った。そよもそれに気づいてか、恥ずかしげに口をつぐんだ。


「……一度に二親をなくすような事にならなくてよかった」


 しばし間があって、陸郎はふと呟いた。そよははっとなって、陸郎の顔を見上げた。一度に二親をなくし、春日家に来た陸郎にどんな想いがあったのか、そよはその眼差しの奥から感じようと見つめた。


「私も今度、会いに行こう。その少女と母親の見舞いに」


 陸郎はそう言うと、沁みるような微笑をしてみせた。そよは何も言えなくなって、うつむいたが、不意にとらわれた思いに口を開いた。


「陸郎さま、お兄様が――」

「どうした?」

「なんだか、以前とは変られたような気がして……」

「変った、とは?」

「うまく言えないんですけど……。雰囲気とか、表情とか――わたくしの思い過ごしでしょうか?」


 陸郎の脳裏に、浪人を斬ったときの達彦の姿が浮かんできた。が、そのことは口にしなかった。


「変らないさ。達兄は、達兄だ」

「そう…ですよね」


 陸郎をみせた陸郎に、そよも迷いを払うように明るい顔を見せた。


 そのしばらく後、二人は一組の親子連れが向こうから歩いてくるのを見た。武士とその奥方、そしてその周りを駆け回るようにはしゃぐ元気な男の子が一人。

 陸郎はその姿に見覚えがあった。南條道場の「三羽烏」の一人、鳥山五郎太であった。


「お、久澄どのではござらぬか。拙者は鳥山五郎太にござる」


 がっちりとした体格の五郎太は近づいてくると、相好をくずして一礼した。


「存じております」


 陸郎も礼を返した。


 鳥山五郎太を見たのは、一年ほど前の、隣国領主の抱える剣士との上覧試合の折である。家の名誉がかかったこの一戦に、鳥山五郎太が選ばれた。


 立合いが始まると五郎太は、左足を踏み込みつつ静かに木刀を左上段に構えた。既に噂になっていた「山の上段」であった。


 未熟な剣士ならば、その構えだけで畏怖してしまい、居ついたところを苦もなく打たれてしまうという。対峙した剣士はその迫力に気圧されていたが、なんとか踏みとどまっていた。


 気圧を振り切るように、相手の剣士ががら空きの胸に突きを繰り込んだ。が、その瞬間、上段から降ってきた木刀に叩き落され、その木刀が地面に乾いた音をたてたときは既に、その喉元に鳥山五郎太の木刀の切っ先が突きつけられていた。


 真っ直ぐで、力強い剛剣である。

 その剣に現れたような、実直で面倒見のいい人柄は、道場生や同僚たちかの人望も厚かった。陸郎は鳥山五郎太を好ましい人物と見ていた。


「父上。こちらのお方は誰ですか?」

「誰、とはなんだ。どなた、と訊きなさい」


 五郎太の足元にいた子どもが陸郎を見て口を開くのを、五郎太は軽くたしなめた。


「こちらはな、今度、父の試合の相手となるかもしれないお方だ。とても強いお方だ。挨拶なさい」

「鳥山一郎太です」


 男の子は深々と頭を下げた。それに合わせるように、少し下がっていた夫人も礼をした。


「これは妻のキヌです。これの実家に孫の顔を見せに行くところでしてな。何はなくとも孫の姿、これが一番の親孝行のようですわ。ははは」


 鳥山五郎太は人懐っこい顔で笑みを浮かべた。


「こちらは春日家のそよ殿です」

「おお、ご家老の娘ごどのでございましたか。美しい娘ごがおられるとは聴いていましたが、なるほど確かに」


 にこにこと頷く五郎太の様子に、そよは少し顔を赤らめた。その笑みを残したまま、「ときに久澄どの−−」と五郎太は口を開いた。


「ぶしつけながら、久澄どのは気性の優しい人物と聴いておりまする。妙なところで出会いましたが、もし立合うことになりましたらば、その時は余計な思案はご無用でござる。存分に参られたし。拙者もそのつもりで参りまする」


 五郎太は神妙な面持ちでそう告げた後、軽く会釈をして微笑んでみせた。


「判りました。私もその時は、全力で挑みます」


 陸郎は久しぶりに得た快い気持ちを味わいながら、五郎太にそう答えた。



   *


 上覧試合は城内中庭で行われる。試合に臨む剣士たちは白鉢巻をし、床机に腰掛けて時を待った。


 試合場を挟んだ向かい側に、陸郎は見慣れぬ顔を見つけた。そこには三羽烏と呼ばれる鳥山五郎太、羽生修平、黒山塊山が座しているはずである。先日会った鳥山五郎太と、少し神経質そうな顔つきの羽生修平はそこにいる。しかし大将の席にいるのは目つきの鋭い、明らかにただ者ではない雰囲気を漂わせた見知らぬ男だった。


「あれは誰だ?」


 陸郎は隣にいた左近に尋ねた。


「国にいたお前が知らんのに俺が知るわけがなかろう。――おい、あれは誰か?」


 左近は後ろにいる控えの者に問うた。


「は、何でも月代抜宗とか申す者のようです。一月ほど前に黒川様の肝いりで、南條道場に来たという事のようです」

「ふん…得体の知れん奴だな」


 左近は面白くなさそうに呟いた。

 やがて上座席に、未だ八歳の君主佐久間安次が、家老の春日達之丞に連れられてやってきた。その後から達彦と一緒に、一人の人物が現れた。


「柳生但馬守宗矩様だ」


 左近が小さく呟いた。陸郎は稀代の剣客であると言われる、将軍家剣術指南役のその姿を改めて見直した。


 知的だが脆弱ではなく、堅固でありながらも柔和な印象を与えるその壮年の侍は、静かな佇まいで座についた。

 驚くほどその挙動に気配がない、ということに陸郎は気づいた。


(あのもの静かな剣士が、戦場にて一度に七人もの敵を斬り伏せたというのか−−)


 大阪冬の陣の折、当時の将軍徳川秀忠の守護についていた宗矩は、秀忠の本陣深くまで攻め込んできた敵勢に動ずることなく、その襲ってきた七人を瞬時に斬り伏せたという。その時、宗矩は秀忠に「これが人の斬り方です」と告げたと、まことしやかに噂されていた。


 幼少の君主と客人である宗矩が着座すると、上覧試合の開始が告げられた。


「久澄陸郎、出ませ」

「はっ」

「鳥山五郎太、出ませ」

「はっ」


 南條道場の先鋒は、やはり鳥山五郎太であった。二人は上座正面に一礼すると、向かい合って木剣を構えた。


「始め!」


 辺りの空気がにわかに緊張感に包まれた。

 鳥山五郎太は静かに左足を踏み込みながら、するすると木刀を上段に構えた。


 がっしりとした体格の五郎太が、さらに大きな不動の山のように見えるのを陸郎は感じた。 

 陸郎はその不動の山を動かすべく、中段に構えたままわずかに左に廻り始めた。山が、それに連れて動く。


「おう」との気合とともに、五郎太の木剣が陸郎の木剣を襲った。痺れるような手応えを受けつつも陸郎は木剣を手放さず、素早く後退した。その喉元に、せり上がってきた五郎太の木剣が襲う。


 陸郎はかろうじてその突きを防ぎつつ、再び間合いをとった。

 再び五郎太が静かに上段の構えをとる。のを終わらぬうちに、陸郎は鋭い身のこなしで左半身から胴に突きをくり込んだ。


 五郎太の木剣がその突きを斬り落す。その瞬間、陸郎は降ってくる木剣をかわし、右半身に転身しつつ、五郎太の頭上に斬り込んだ。


 が、その瞬間。陸郎の木剣は空へ撥ね飛ばされ、その首すじに五郎太の木剣が置かれていた。


「――参りました」


 落ちてきた木剣が乾いた音をたてた。

 南條道場側の場が、わっと声をあげた。


 気迫に満ちた眼で陸郎と見つめあっていた五郎太は、ふっとその殺気を解きつつ、何かを語るように陸郎に小さく頷いた。陸郎も小さく目礼をして返した。


「それまで。鳥山五郎太」


 陸郎は落ちた木剣を拾うと、控えの席に戻った。


(完敗だ……)


 陸郎は背中からどっと汗が吹き出てくるのを感じた。木剣とはいえ、このような試合では負傷はおろか落命することすらありうる。それを鳥山五郎太は自ら傷つかず、また陸郎をも傷つけることなく勝負を決してみせたのだった。


(素晴らしい剣士だ――)


 陸郎は久しぶりに感じたすがすがしい気持ちで、向かいにいる鳥山五郎太を見た。五郎太本人は既に始まろうとしている次の試合に眼を向けていたが、そのずっと奥の方で、陸郎が先日見かけた五郎太の息子が母親の膝に飛びついて喜んでいるのが見えた。


 ふっと、陸郎の気持ちが和んだ。


 次の中堅試合は、堀田左近と羽生修平の一戦であった。

 羽生修平は陸郎より幾つか歳上で、「南道場の俊才」と呼ばれる若手剣士の筆頭格であった。羽生はまた「羽ばたき突き」と異名をとる突き技の名手でもあった。


 陸郎は固唾をのんで見守った。

 対峙した堀田左近と羽生修平は、間合いを計るようにして円を描いてわずかに動いていた。切っ先は触れてはいない。それは羽生が意図してつくった間合いだった。


 その思わぬ遠間から。羽生が俊敏な動きで突きを繰り出した。喉元を襲う電光石火の突きを、左近がかろうじて剣先を逸らして受け流す。羽生の切っ先がわずかに、左近の左肩をかすめた。


 瞬間、羽生が身体を変えて切り返しの胴を打つ。この極めて受けにくい一撃を、左近は咄嗟に右手を峰に添えてこれを受け止めた。


 すぐさま跳び退く羽生に、左近が刀を返した片手斬りを見舞う。

 攻め手を防がれた後の引き際は、最も注意力が落ちる瞬間である。左近の剣はその一瞬の間隙をつく手ごわい一撃であった。が、羽生はそれを素早く受けた。


 再び間合いをとった二人が睨みあった。


(左近の奴、勘が戻ったな……)


 陸郎と仕合った時よりも、左近の動きは良くなっていた。

 二人はじりじりと見合っていたが、羽生が口火を切った。


 外側に弧を描いて左こめかみを襲う変形の突き。それを受けられざま、すぐに逆の右こめかみへ突きが飛ぶ。手首の柔らかさに加えて、前手と後ろ手の使い方の『手の内の妙』が必要な速撃。この連撃をからくも防いだ左近に、さらにみぞおちを狙う中段突きが襲った。


 この怒涛の三連撃を左近が凌ぐ。最後の突きを、左近は逆に巻き落としをかけて防ぎ、さらに逆襲の乗り突きを加えようとした。


 が、次の瞬間、左近の木剣が空高く舞った。巻き落としをかけた左近の木剣に、羽生はさらに巻き上げをかけたのである。

 無手になった左近の喉元に、ピタリと木剣が据えられた。


「……参りました」


 勝負は既に大将戦を待たずして、南條道場の勝利に決した。

 しかし美木利光の闘志は衰えてはいなかった。どころか美木は仲間の敗北に憤り、怒りの血をたぎらせていたのである。


 対する月代抜宗は冷ややかな面持ちで美木の前に立った。微かに笑った、かのように見えた。


 氷と炎のように対照的な二人の仕合が始まった。

 美木は気迫をみなぎらせたまま八相へ構える。対する月代はゆらりと前に出ると、切っ先の延長線を左目につける青眼へ構えた。


 美木の激しい気迫と月代の不敵な気勢がぶつかり合い、二人はしばしの間じりじりと睨みあった。


 先に動いたのは美木だった。


 鋭い一撃が月代の手元を襲い、そのまま突きに転じる。松田が微動もできなかった瞬速の技である。月代はそのみぞおちを狙う突きを上部へ受け流すが、瞬時に美木は木剣を返して左下段からの逆袈裟に斬り上げた。


 その燃えさかる炎のような連撃を、月代は無表情のまま防ぎきった。その鋭い目つきからは、この美木の技をどう見たのか伺うことはできない。


 今度は月代が青眼のまま突進した。が、何処を斬りつけにくるのか判らない。否、何処にも斬りつけることなく、構えた木剣をただすり合わせにきただけのように見えた。

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