自己破産で逃げ切れると思うなよ

広川朔二

自己破産で逃げ切れると思うなよ

土曜日の朝。少し雲の多い空だったが、気温は穏やかで、エンジンオイルを交換したばかりの愛車には心地よい空気だった。


坂本浩一、四十歳。都内の中堅企業で働く、ごく普通のサラリーマンだ。結婚歴はなく、趣味はドライブ。愛車は十年以上連れ添った古いセダン――日産のブルーバード。今となっては街中で見る機会も減ったが、こまめなメンテナンスと洗車のおかげで、艶のあるボディを維持している。


「今日も頼むよ、相棒」


車庫から出し、静かにエンジンをかける。エンジンは滑らかに始動し、まるで返事をするかのように小さく唸った。


浩一はこの時間が何よりも好きだった。誰に見せるわけでもないが、自分で磨き、手を入れてきたこの車には、単なる移動手段以上の価値があった。


都内を抜けて、郊外の道へ向かう途中、交差点で赤信号に差し掛かる。ブレーキを踏み、車を止める。信号は長く、周囲の車も動きを止めていた。浩一は、窓の外をぼんやりと見つめながら、今日のルートを考えていた。


そして――


ドンッ!!!


唐突に、車体の後部が激しく揺れた。首が軽くのけ反る。


「なっ……」


思わずシートに手をつく。後続車に追突されたのだと、すぐに理解した。


慌てて車を降り、後ろを確認すると、そこには黒いミニバンがぶつかっていた。前部は潰れ、ボンネットが歪んでいる。


車から降りてきたのは、金髪にジャージ姿の若い男。スマホを片手に持ちながら、片手で缶コーヒーを持っていた。


「うわ、マジかよ……最悪」


浩一が口を開こうとする前に、男はため息をつきながらミニバンを眺め、続けてこう言い放った。


「つーかさ、車ボロくね? 潰れてラッキーじゃん?」


その場の空気が一瞬凍りつく。周囲には何人かの通行人が立ち止まり、スマホを向け始めていた。パシャ、パシャ、とシャッター音が遠く聞こえる。


浩一は何も言えずに立ち尽くし、背中に嫌な汗がにじんでくるのを感じた。ただただ、警察が到着するまでの時間が、異様に長く感じられた。





「残念ですが……加害者側は任意保険に加入していませんでした。自賠責だけですね」


数日後、保険会社の担当者が淡々と告げた言葉が、浩一の胸に重くのしかかった。


事故後、軽いむち打ちと診断された浩一は、病院に通いながら事故処理を進めていた。幸い、命に別状はなかったが、愛車は見るも無残な姿となり、修理は困難だとディーラーに言われた。


「これ、直せたとしても費用が車両価格を超えますよ。正直、廃車の判断になりますね……」


廃車。十年以上連れ添ってきた愛車が、たった一瞬で“鉄くず”と化した。


だが、それ以上に許せなかったのは、加害者の対応だった。


事故から数日後、警察署で再び顔を合わせたあの若者――田所という名前だった。彼は反省する様子もなく、書類を書きながら笑い混じりにこう漏らした。


「いやー、焦ったわー。でも保険とか高くて入ってねーし、まあしゃーないっしょ? つーか、車ボロいし、大事にしてたとかマジウケるんだけど」


その場にいた警官すら、少し眉をひそめるほどの態度だった。


その後、浩一は民事で損害賠償を請求することに決めた。事故原因は百パーセント後方車両の過失。法的にも、責任は明らかだった。


弁護士に依頼し、正式に訴訟を起こす。裁判は淡々と進み、予想通り浩一側の勝訴となった。


だが——


判決からわずか数週間後、弁護士から一本の電話が入った。


「相手方、自己破産を申請しました。つまり……損害賠償の支払い義務を、免責される可能性があります」


言葉がうまく理解できなかった。


損害賠償請求を通じて得た勝利は、たった一つの申請で“帳消し”になろうとしていた。


免責が下りれば、田所は一銭も払うことなく、自由の身になる。高額な弁護士費用も、時間も、精神的な負担も、すべて無駄になる可能性があった。


――なぜ真面目に生きている人間が、こんな目に遭わなければならない?


夜、自室で一人になった浩一は、誰にもぶつけようのない怒りを拳に込め、机を叩いた。


「くそっ!くそっ!」


机をたたくたびに愛車のキーが机の上で小さく跳ね、カチャカチャと無機質な音を立てた。


事故後に調べていた田所のSNSを見れば、今も友人たちと笑い合い、事故を「やらかした武勇伝」として面白おかしく語っていた形跡があった。投稿こそ控えていたが、動画を送られたという記述や、「また車買わなきゃ~笑」などのコメントが残されていた。


浩一は深く息を吐いた。


このままでは終われない。終わらせてはいけない。


そう、失ったものは大きかった。だが、何よりも失いたくないのは——自分自身の「正しさ」だった。


「必ず相応の報いを受けさせてやる」


田所の自己破産申請が通れば、損害賠償の支払い義務は免れる。それが“制度”の冷たい事実だった。だが、浩一は諦めなかった。弁護士の協力を得ながら、破産法の条文を何度も読み込んだ。そして、ある一節に目が留まる。


【悪意による不法行為に基づく損害賠償請求債権については、免責の対象とならない】


「悪意」「不法行為」。それがキーワードだった。


浩一があの事故を調べていると一つの投稿に行きついた。表示数も、いいねの数も少ない投稿だ。アカウントは高校生のもので、あの場所に居合わせたのか事故直後の映像が比較的鮮明に撮影されていた。


——「車ボロくね? 潰れてラッキーじゃん?」


許すことの出来ない田所の心無き言葉。 そして、缶コーヒー片手にヘラヘラと笑い、スマホをいじる姿。救急車を待つ浩一の背後で、その表情は一片の反省もなかった。


浩一はその映像を保存し、弁護士に提出した。これが「悪意」と「常軌を逸した行動」の証拠となり得るかもしれない。弁護士もそれを認め、免責不許可を主張する方針に切り替えた。


同時に、浩一は田所の生活実態を調べ始めた。正面から探偵を雇うのではなく、合法の範囲で情報を集める。かつて田所がSNSにアップしていた写真や投稿、ナンバープレートが映った画像――そこから浮かび上がったのは、個人で軽貨物配送の仕事をしている姿だった。


ナンバーを照合し、陸運局へ問い合わせた。登録の切れた車両で営業行為をしている疑い。市の生活衛生課へ連絡。届け出のない営業行為に対し、行政指導が入り、ほどなくして田所の配送業務は停止された。


さらに、近隣住民から騒音や不法駐車の苦情も上がっていたらしく、管轄の警察署が動いた。


田所の“自営業ごっこ”は、わずか数週間で立ち行かなくなった。


そして、免責を巡る審尋の当日。

弁護士は、事故時の映像と田所の反省なき態度を法廷に提出した。


「被申立人の発言および行動は、過失の域を超えた“悪意のある不法行為”であると認められます。よって、債務免責の適用は妥当でないと考えます」


裁判官は資料に目を通し、静かに頷いた。

田所は、法廷でも「自分はそんなつもりじゃなかった」と曖昧に答えたが、映像と証言は明確だった。


数日後、判決が下った。


「被申立人の債務について、免責を許可しない」


それは、田所にとって“逃げ道”を断たれた瞬間だった。


差押えが可能になり、彼のわずかな収入からでも浩一への賠償は始まる。逃げても逃げても、法的義務から逃れることはできない。


浩一は勝利を喜ぶでもなく、静かに判決文を見つめた。正義とは、大声を上げるものではない。ただ、真っ当に生きる者の背中を支えてくれる、唯一の盾であるべきなのだ。






判決から半年が過ぎた。


田所からの賠償金は月に数万円という僅かな額だったが、それでも差し押さえによって確実に支払われていた。逃げることは、もはやできない。


生活の自由も、信用も、すべてを失った田所は、かつてSNSで見せていた陽気な姿とは別人になっていた。再び配送業に就こうとしたが、行政からの指導と破産記録が響いて雇い口はなかった。バイク便や日雇い派遣を転々とし、収入の三分の一は強制的に差し引かれている。


何よりも効いたのは、あの動画だった。


彼の「潰れてラッキーじゃん」という言葉は、再生数こそ大きく伸びなかったが、関係者や裁判所では明確な「人間性の証拠」として使われた。数分の映像が、彼の逃げ道をすべて塞いだのだ。


一方の浩一は、新しい車のハンドルを握っていた。以前のように高価なものではない。型落ちの中古車で、少しクセもある。だが、ハンドルを握る手に、懐かしい感覚が蘇っていた。


「よし、行こうか」


助手席には、かつてのブルーバードのキーがぶら下がっている。役目を終えたその鍵は、今や小さな守り札のように思えた。


すべてを取り返したわけではない。愛車は戻らないし、費やした時間も戻らない。だが、彼は戦った。声を上げ、正義を通した。不条理に屈せず、怒りに溺れず、正当な方法で“報い”をもたらした。


彼の背中を押したのは、「怒り」ではなかった。「このまま終わらせたくない」という、自分自身への誠実さだった。


車は静かに走り出す。

窓の外には、かつてと同じような空。少し曇っているが、遠くには陽が差していた。

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