海魔に支配された海で、男は一人釣り糸を垂らす

やまだのぼる

漁村

 海沿いの、打ち捨てられた漁村。

 誰一人いないはずの、静まり返った廃墟。


 そこに、その男はいた。


 男はくすんだ色の、ゆったりとした異国風の服をまとっていた。

 古い石積みの防波堤の上に座り、木の棒の先端に結び付けた糸を海面に垂らしていた。

 それが釣り竿という魚を釣る道具であることを、オルドゥは文献で知っていた。

 周囲を見回し、男が一人であることを確認してから、オルドゥは彼に歩み寄った。

「こんにちは、お兄さん」

 振り向いた男は、どこか茫洋とした顔をしていた。

「ああ、こんにちはお嬢さん」

 男はにこりと微笑む。

「釣り日和のいい天気だね」

 笑うとただでさえ細い目が、まるで一本の線のようになってしまう。人を引き付ける、妙に人懐っこい笑顔だった。

 思わずオルドゥも微笑み返しそうになって、それから慌てて笑顔を引っ込める。

「一人?」

「ああ」

 男は頷いて、海に視線を戻す。

「釣りは、一人でやるのが好きなんだ」

「釣れた?」

「まだ、何も」

 男は海面に視線を落とした。

「魚はたくさんいるのが見えるんだが」

「そんな細い目で、本当に見えてるの?」

 オルドゥのからかいに、男は軽い笑い声をあげる。

「こっちの人はみんな目が大きいからのぅ」

「変わった喋り方」

「そうか?」

 男の言動に攻撃性は感じられなかった。

 そこまで確かめてから、オルドゥは男の隣に立つ。

 海面には白い波が見えるが、海魔の姿はない。

「お兄さん、どこから来たの?」

「さあて」

 男はぼさぼさの髪をぽりぽりと掻いた。

「どこから来たのやら」

「名前は?」

「……名前か」

 男はうなった。

「覚えていないのだ」

「……記憶喪失?」

「ちょうどこの辺を」

 右手の人差し指で、男は自分の眉間をとんとんと叩く。

「ばかっ、とかち割られたことは覚えているのだが」

「……」

 オルドゥはわずかに身を引く。

 そうは言っても、男の眉間には傷一つない。

 男の傍らに、黒い鞘に収められた曲刀が一本置かれていた。

「とにかく、魚が食いたくてね」

 と男は言った。

「食えば、思い出しそうな気もする」

「魚はなかなか手に入らないのよ。高級食材」

 オルドゥは言った。

「海は危険だから」

「この国には、こんな豊かな海があるのに」

 男は水平線の向こうを見やる。

「漁村はどこに行っても廃村ばかり。どうなっているんだ」

「海は、海魔の領域だから」

 オルドゥは答えた。

「誰も海には近寄らない」

 男は横目でオルドゥを見た。

「海魔ってのは?」

「知らないの?」

「ああ」

「海の向こうから来る、恐ろしい化け物どものこと」

 オルドゥは水面に目を凝らす。白い波。まだ魔物は来ない。

「海魔は何の前触れもなく、突然にやって来て人を食い殺すの。硬い鱗は、剣も槍も通らない。だからみんな海を捨てて、海から離れた内地に移り住んだわ」

「ふうん。海魔、か」

 男は釣り竿をゆらゆらと動かす。

「そいつはでかいのか」

「ええ、とっても」

「誰も、海魔と戦おうとはしなかったのか?」

「戦ったって、勝てるわけないもの」

「そうか……」

 男はまた海面を見た。釣り竿の先が、ぴくぴくと動いていた。

「引いてるよ」

「ああ」

 男は釣り竿をぐい、と引っ張りあげるが、竿はみしみしと音を立てた。

「大物?」

「違う」

 男は頼りなくきしむ釣り竿を不満そうに見た。

「竿に使った木があまりよくない……こっちの木で見よう見真似で作ったから……」

 それでも慎重に竿を上げ、釣り上げたのはちょうど手のひらに収まるくらいの小魚だった。

「おお」

 男は針を外し、オルドゥに釣果を見せる。

「この魚、うまいのか?」

「分からない」

 オルドゥは首を振る。

「食べたこと、ないもの」

「食べたことがない? 珍しい魚なのか? なんて言う魚だ?」

 矢継ぎ早に質問する男に、オルドゥは困った顔をした。

「知らない。魚のことは、わからない」

「少しアジに似ているかな。俺はカツオを食いたいのだが」

 男は、カツオ、ともう一度言った。

「知っているか。これよりもっと大きい、これくらいの大きさで」

 男は妙にはしゃいだ口ぶりで、釣った魚を石の上に置くと自分の胸の前で両手でカツオの大きさを表現する。

「もっと大きいのだとこれくらいになる」

 腕をぐっと広げて、自分の曲刀と同じくらいの大きさを示す。

「赤身で、脂がのっていて旨い」

「そんなに大きな魚は、もっと沖に出ないと釣れないんじゃないの」

 オルドゥの言葉に、男は、

「そうかもしれん」

 とうなる。

「船はないのか」

「船なんてないよ」

 オルドゥは首を振る。

「海魔にたちまち食べられちゃうもの」

「そうか。そういうものか」

 男はようやく納得した顔をした。

「この国の人は、海を失ったのか」

 失った。そう言えるのかどうか。

 オルドゥが物心ついた時から、海は海魔のものだった。

 最初から自分のものでなかったものを、失ったとは言わない。

 男が、改めてオルドゥを見る。

「お嬢さん、名前は?」

「オルドゥ」

「オルドゥか」

 男は口の中で確かめるように呟く。

「オルドゥは、どうして海に来たんだ」

「どうしてって……」

 少女が言葉に詰まると、男は細い目で彼女を見た。

「海魔が来る恐ろしい場所なんだろう。そんなところにわざわざ来るのは、何か理由があるがやろ」

「……あ、また」

「ん?」

「喋り方が、ちょっと変わった」

「そうか?」

 男は首をかしげる。自覚はないようだった。

「レ・メリのおばばが言っていたの。ここに、未来を変える人が現れるって」

「未来?」

「うん。この国の未来。この世界の未来、ここで生きる人たちの未来を」

「そのなんとかのおばばっちゅうんは、巫女か何かか?」

「レ・メリは時の流れを見ることのできる人。昔は何人かいたけど、今ではもうおばばしかいない」

 オルドゥは言った。

「私は、その見習い」

「そうか。オルドゥにも時が見えるのか」

「私はまだほとんど見えない」

「それで、おばばの言ってたその人間を探しに来たっちゅうわけか」

「うん」

「未来を変える人間、か」

 男は、釣り竿を石の上に置いた。

「俺がそうとも思えんが」

「うん、違う気がする」

 オルドゥは素直に言った。

「おかしな人だけど、すごい人には見えない」

「ははは」

 男は笑った。嫌味のない、からっとした笑いだった。

「カツオはな、たたきにすると一番うまい」

「たたき?」

「藁を焼いて表面だけを炙る。分厚く切ったのに山盛りの薬味をかけて食う。これが最高だ」

「……ふうん」

 男の言っていることはよく分からなかった。ただ、男がとにかく魚の料理を欲しているのだということは分かった。

 海魔の出るこの国では、魚は極めて貴重な食材だ。命知らずがわずかに採った魚も、運搬中にほとんどが腐り、残りは上流階級の手に渡り、一般人の口に入ることはまずない。

「そろそろ、海魔が来るよ」

 オルドゥは言った。

 風向きが変わっていた。

 よくない気配がする。

 海魔が出るときにはいかなる前兆もなかったが、レ・メリの弟子であるオルドゥには何となく察することができた。

 もうここは危ない、と彼女の勘が告げていた。

「離れないと危ない」

「そうか」

 男は素直に釣り竿を片付け始めた。

 だが、いくらもしないうちに海がぼこぼこと泡立ち始めた。

「ほら、来た! 早く!」

 オルドゥの悲鳴のような呼びかけとは裏腹に、男は手を止めてその泡を見つめた。

 次の瞬間、海が割れるような轟音が響き、海中から奇怪な魔物が姿を現した。

 ぎざぎざの、不揃いな牙の生えた巨大な口。どす黒い鱗には小さな貝がびっしりと貼りついていた。

 悪夢に侵された画家が妄想の赴くままに描き殴った魚のようにも見えたが、その胴体には爬虫類を思わせる四肢が生えていた。手にも足にも邪悪にねじ曲がった爪が伸びている。


 海魔。


 この世界の海を支配するもの。

「手と足があるのか」

 男は突っ立ったまま、呑気な感想を口にした。

「そうだよ、だから陸にも上がって来る!」

 オルドゥはもう駆け出していた。

「あなたも早く逃げて!」

 だが、男はゆっくりと曲刀を手に取った。

「――先に、こいつの名を思い出した」

 男はすらりと刀を抜いた。刃に浮かぶ波のような紋様が太陽の光を反射してきらめく。

陸奥守吉行むつのかみよしゆき

「え?」

 呪文のような言葉だった。

「俺は海で、こいつよりももっと黒くて、もっとでかいもんを見たことがある。あんときは、もっと心が震えた」

 何を言っているのか。

 海魔が、耳をつんざくような鳴き声を上げながら陸へと近づいてくる。

 巨体だというのに、恐ろしく速い。

「海ちゅうんは、希望の扉でなけりゃあいかん」

 男は言った。

「海の向こうには、でかい夢があるがで」

 ついに、海魔は防波堤に到達した。

 古い防波堤の上にひょろりと立つ男は、海魔にとっては絶好の獲物だった。

 巨大な口で、男を一息に飲み込もうとした。

 激しく合わさった牙が、がちん、と音を立てる。オルドゥは思わず目を背けたが、男はふわりと身をかわしていた。

 間髪入れず、海魔の腕が唸りを上げた。防波堤の石が飴細工のように砕け散る。しかし、やはり男はそこにはいなかった。

「船中八策の七」

 男はそう口にした。

「御親兵ヲ置き、帝都ヲ守衛セシムベキ事」

 海魔が口から涎を飛ばしながら腕を振るう。

 男の身のこなしは決して軽やかとは言えなかった。だが、それでも海魔の攻撃は空を切り続けた。防波堤の石や土が飛び散るが、男の体には傷一つない。

「船中八策の六」

 男が跳んだ。奇妙な名を持つ刀が、まっすぐに振り上げられる。

「海軍宜ク拡張スベキ事」

 オルドゥの目には、刀に一瞬光が宿ったように見えた。

 振り下ろされた刀が、海魔の鱗を断ち切る。

 今まで、どんな剣も槍も通さなかったその黒い鱗を、たった一太刀で。

 ぶしゅう、とどす黒い体液が噴き上がった。

 海魔は奇声を上げてのたうち回る。

 ただの獲物に過ぎないはずの人間に、突如すさまじい反撃を受けたのだ。立場の逆転を理解できず、混乱しているのだろう。

「こいつ、海から力を得ちゅうのか」

 男は刀をぐっと引き付ける。

「じゃったら返せ」

 男が踏み込んだ。

 裂帛の気合とともに、海魔の胴に刀を深々と突き刺す。その刀身から、白い光が溢れ出た。

「船中八策の一」

 男は言った。

「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」

 その呪文とともに、光が海魔の力を吸い取っていく。鱗がぼろぼろと剥がれ、その体が崩れていく。

「大政奉還!」

 男が叫んだ。

 オルドゥが呆然と見守る中、海魔は光の中に消えた。



 静まり返った海。

 男は何事もなかったようにオルドゥを振り返った。

「まっこと、世話ないもんじゃき」

 男は言った。その手に、自分の二の腕ほどもある太さの魚を掴んでいた。

「こいつが、海魔の正体じゃ」

「それが、海魔の」

 オルドゥは目を見張る。

 海魔の正体が、魚?

「たたきにしてみようち思う」

 男はそう言って笑った。

「カツオと、どっちがうまいろうか」

「思い、出したの?」

 オルドゥは尋ねた。

「あなたの名前」

「おう、思い出した」

 男は答える。

「俺は、土佐脱藩」

 にこりと笑う。人を引き付ける、不思議な魅力を持った笑顔。

「坂本龍馬」








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