第49話 お父さん
◇
晶水湖の水面が揺れる。鳥が甲高く鳴いたあと、木々が風に揺れてざわめいた。
私のすぐ隣にはお父さんがいた。
娘を前にして緊張している。そんな私もガチガチに固まっていた。
南雲さんは気を利かせて、私たちを二人きりにしてくれている。
草むらに肩を並べて座った親子のあいだには、ぽっかりとした沈黙だけが広がっていた。
「三莉……」
「……」
「大きくなったなぁ」
デジャヴだ。先ほどの夢と同じことをお父さんは言っている。
視界がぐわんと歪むのを抑えつつ、口を開いた。
「私、大きくなったでしょ」
言いたいことは山ほどあるのに、うまく言葉にできない。
気づけば、オウム返しのようにお父さんの言葉を真似していた。
「晶水湖、きれいだね」
「……そうだな」
久しぶりにあった親子とは思えない会話だった。
でも、本当に心から思ったことだった。
お父さんに素直な感想を伝えられただけでも、晶水湖に来た価値があると思う。
「何か困っていることはないか?」
お父さんはそう言った。
困っていることは、いくつかあるはずだった。
生きていると悩みも出てくるし、自分の力だけではどうしようもないこともある。
「えっと」
ゆっくりと言葉を続ける。
「夜に家に一人ぼっちになるのは寂しいかも」
「……」
「お母さんが夜の仕事に行くとき、私家に一人になるんだ。もう慣れたけど、外から声が聞こえたり、風が強く吹いたりする日は怖くて寂しい気持ちになる」
「そっか」
お父さんはそう続けたあと、
「三莉、頑張っているなぁ」
と言った。
お父さんから『ごめん』と謝られたら、多分、腹が立っていただろう。
だけど、不意打ちで『頑張っているなぁ』と言われてしまったから、心が震えて、何も言えなくなってしまった。
私は両親に肯定されたかったんだ。偉いねと褒めてもらいたかったんだ。
「俺……お父さんは、三莉とお母さんに合わせる顔がなかった」
「……」
「3人で暮らしていた頃、お父さんは仕事を辞めたあと、新たな職を探そうともせず、家に閉じこもっていた」
お父さんは下を向く。
「大人になってもワクワクするものを追いかけたくて、お母さんにも呆れられて……それでも縁があって、今の研究所に拾ってもらえたんだ」
晶水湖に向かって、私たちは話していた。この向き合わない距離感がちょうどよかった。正面より、ずっと素直になれる気がする。
「楽しかった。毎日が驚きの連続で、生きている気がした。三莉はどうだ? ……お父さんは、最近では行きたいところにどこでも行けるドアの研究をしていて、試作の毎日なんだ」
耳を疑った。すぐ頭に浮かんだのは南雲さんとクローゼットを通じて会っていた、あの日々だった。
「会いたいって思ったときに会えるって、すごいことだと思わないか? 普通さ、距離とか考えすぎて動けなくなるだろ?」
わたしは頷く。お父さんは続ける。
「それを一瞬で吹き飛ばして会いに行けるって、奇跡みたいなことだよな。お父さんは勇気の後押しをする人になりたい」
もしかして、お父さんの研究が、今、南雲さんに起きていることとつながっているのかもしれない。そんな考えがよぎったけれど、言葉にはできなかった。
それよりも、お父さんが自分のやりたいことを見つけて、楽しそうに生きているのが羨ましかった。
それからのお父さんの沈黙は、どこか「今度は三莉の話を聞かせてくれないか」と言っているようにも感じられた。けれど、それは強要ではなかった。
何か言おうとして口を開いた瞬間、涙がこぼれた。ずっと胸に秘めていた想いを誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
まるで3歳の子どものように、感情をそのままぶつけた。ひどいことも言ってしまったかもしれない。でも、お父さんは黙って受け止めてくれた。「ごめん」「そうだよな」「辛かったよな」という言葉も添えて。
泣き疲れた頃、ぼんやりとした頭で思った。お父さん、丸くなったなと。それはきっと、自分の「好き」に正直に生きているからかもしれない。
世間から見れば「常識外れ」と言われるかもしれないけど、お父さんの目は確かに輝いていた。
◇
「何かあったら、またここにおいで」
「うん」
陽が傾き始めた頃、私は少しずつ落ち着きを取り戻し、笑えるくらいまでにはなっていた。
お父さんとはLINEを交換した。何でもいいから、いつでもメッセージを送ってきてほしい、と言ってくれた。
お父さんは、私とお母さんが暮らすアパートには来られないから、きっと会うときは晶水湖で落ち合うことになるだろう。
「ねぇ、お父さん」
「うん?」
「お母さんと別れてから、彼女はできた?」
私の直球の質問を、はぐらかすかなと思っていたら、お父さんは「できていない」と力強く言った。
「研究が恋人だから」
恥ずかしげもなくそう言って、笑った。私は目を伏せた。
「……送ってくれなくていいよ。南雲さんと帰るから。研究所からわざわざ出てきてくれてありがとう」
「いいんだ、そんなことは。……そうか。気をつけて帰るんだよ。南雲さんのお嬢さんによろしく」
お父さんと私は目が合って、そっと頷きあった。
くるりと背中を向けて、南雲さんがいるはずの方向へ歩き出す。一度も振り返ることはしなかった。
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