『死はやさしく口笛を吹く —沈黙の探偵と記憶の迷宮—』

ソコニ

第1話 霧の中の音

# 第1章:『霧の中の音』


霧の朝、村は沈黙に包まれていた。


グレンミスト。人口わずか三百人のこの小さな英国の村は、今日も濃厚な霧の中に沈んでいた。村の名前通り、霧は年中この土地を覆い、まるで村人たちの過去の記憶をも隠し去るかのように、すべてを白い靄の向こうに押しやってしまう。


教会の鐘が八回鳴った。日曜日の朝八時。村人たちが重たい眠りから覚め、一週間の束の間の休息を迎える時刻だ。しかし、今朝は何かが違っていた。霧の中から聞こえる鐘の音は、いつもと同じように響いているはずなのに、奇妙に重苦しく、どこか歪んでいるような錯覚を覚えた。


十二歳のシエラ・スレイドは、自分の部屋のベッドに目覚めたまま横たわっていた。窓の外では霧が渦を巻き、前庭の桜の木の輪郭を霞ませている。彼女は大きな青い目を見開いて天井を見つめながら、昨夜聞いた奇妙な夢について考えていた。夢の中で誰かが口笛を吹いていた。優しく、哀しく、そして恐ろしいほどに美しい音だった。


突然、屋外から騒ぎが聞こえてきた。


シエラはサッと起き上がり、窓際に飛び寄った。霧の中からウィロビー夫人の家——隣家——の方向から複数の人影が現れ、慌ただしく行き来している。


「何か起きてる」シエラはつぶやいた。


彼女は急いで服を着替え、階段を降りた。居間では父親のハロルド・スレイドが新聞を読んでいた。村の不動産業を営む彼は、常に厳格で、シエラに対しても「村の有力者の娘」としての振る舞いを求める人物だった。


「お父さん、外で何が起きてるの?」


ハロルドは新聞から目を上げることなく答えた。「お前には関係ない。騒ぎ立てるのは品がない」


「でも——」


「シエラ」ハロルドは鋭く娘を見つめた。「今日は日曜日だ。教会に行く準備をしなさい」


しかし、教会への出発は延期になった。ウィロビー夫人の家の前に警察車両が到着したのだ。バロウズ警部が霧の中から現れ、村人たちに「ここは犯罪現場の可能性がある。近づかないように」と告げた。


シエラはこっそりと、木の陰から様子を窺った。そして見た——ストレッチャーに運ばれていく、シーツに覆われた人影を。


警部の発表は簡潔だった。「マーガレット・ウィロビー女史、八十四歳。今朝七時頃、自室で亡くなっているのを娘のエリザベスが発見した。現場の状況から、自殺と断定される」


村人たちは互いに囁き始めた。「ついにあの人も...」「最近、ずいぶん弱っていたから」「戦争のことを時々思い出して、夜中に泣いていたそうだ」


シエラは警部に近づいた。


「警部さん、ウィロビー夫人は本当に自殺なの?」


バロウズは眉をひそめた。「ええ、お嬢さん。辛い事実ですが...」


「でも、私、聞いたわ」シエラは声を潜めた。「昨夜、彼女が亡くなる直前、口笛の音を」


警部は首を傾げた。「口笛?」


「うん。とても優しい、でも悲しい音。最初は上がって、それから長く下がっていく。そんな音」


「子供の想像だろう」ハロルドが突然現れ、シエラの肩を掴んだ。「警部、娘が失礼しました。朝の霧で寝ぼけていたんでしょう」


シエラは父親の手を振りほどいた。「違う!本当に聞いたの!」


しかし、警部も父親も、彼女の言葉を信じてはくれなかった。事件は「老いた女性の孤独死」として、速やかに片づけられようとしていた。


午後、霧は少し薄らいだ。シエラは家を抜け出し、村の中を歩き回った。どうして誰も口笛のことを信じてくれないのか。あの音は確かに聞こえたのに。村はずれまで来ると、彼女は一軒の古い家の前で足を止めた。


それは村でも有名な鷺沼鏡二の屋敷だった。


日本人の老人は四十年前、医学研究のためにロンドン大学に留学したまま、この村に留まった。村人たちは彼を「静かな老医師」と呼び、時折相談事を持ち込むものの、その詳しい過去を知る者は少なかった。


シエラが門の前で立ち止まると、窓から穏やかなピアノの音が聞こえてきた。バッハのインヴェンション。冷たく理知的な音が、霧の中にゆっくりと広がっていく。


その時、ピアノが止まった。


窓際に白い顔が現れた。鷺沼鏡二だった。長い白髪混じりの髪を後ろで束ね、端正な顔立ちをした老人。彼の手には黒い手袋がはめられていた。二人は数秒間、見つめ合った。


シエラは思い切って言葉にした。「私、口笛を聞いたんです」


鏡二は静かに答えた。「人は時に、現実には存在しない音を聞く」


「でも——」


「しかし」彼は言葉を継いだ。「その音があなたにとって真実ならば、それもまた一つの現実なのかもしれませんね」


シエラは不思議な感動を覚えた。大人で初めて、自分の言葉を一瞬でも考えてくれる人に出会ったのだ。


「ウィロビー夫人が亡くなったの」シエラは言った。「みんな自殺だって言ってる」


「そうですか」鏡二は静かに答えた。「彼女は長年、ここで暮らしていた人ですね」


「あなたは信じてくれる? 私が聞いた口笛のこと」


鏡二は少し考えてから答えた。「耳は時として、最も正直な感覚器官です。特に子供の耳は、大人が聞き逃す音も捉えます」


シエラは希望を感じた。「じゃあ、本当に何か聞こえたの?」


「それは分かりません」鏡二は慎重に言葉を選んだ。「しかし、もしあなたの言葉が真実ならば、ウィロビー女史の死は単純な自殺ではないかもしれません」


その時、遠くから教会の鐘が鳴った。葬儀の鐘だ。ウィロビー夫人の死を村全体に知らせる、重々しい音色。


シエラは空を見上げた。霧は再び濃くなり始めていた。まるで今朝起きた出来事を隠そうとするかのように。


「あの…」シエラは勇気を振り絞って言った。「また来てもいいですか?」


鏡二は穏やかに微笑んだ。「音について、もっと聞きたいことがあれば」


シエラは走り始めた。家に帰る前に、もう一度ウィロビー夫人の家の前を通りたかった。そこには確かに何かがあるはずだ。彼女が聞いた口笛の謎を解く鍵が。


霧の中を走りながら、シエラは考えた。なぜ自分だけがあの音を聞いたのか。なぜ大人たちは信じてくれないのか。そして、なぜ鷺沼先生は最初からその可能性を否定しなかったのか。


その夜、シエラは再び口笛を聞いた。


今度は夢の中でではなく、現実に。窓の外、霧の中から聞こえてくる。短く上昇する音。長く下降する音。優しく、哀しく、どこか懐かしい。


シエラは窓際に走り寄った。音はどこから聞こえてくるのか。村の中心、教会の方向からだろうか。それとも森の向こうからだろうか。音は霧に吸い込まれるように拡散し、起源を特定することができない。


ベッドに戻りながら、シエラは思い出した。ウィロビー夫人の娘のエリザベスが、母親の最期について語った言葉を。「母は最後に何か小さく口笛を吹くような音を立てて...でも、それは苦しんでいたからだと思います」


口笛。またその音だ。偶然なのか。それとも...


翌朝、月曜日。村は再び霧に包まれていた。シエラは学校に向かう途中、再び鷺沼の家の前を通った。彼は庭で何かを観察していた。


「おはようございます」シエラは声をかけた。


鏡二は振り返った。「おはよう、シエラさん」


「昨日のこと、考えてくれました?」


鏡二は静かに頷いた。「音について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」


シエラは嬉しくなった。本当に考えてくれていたのだ。


「上がって、下がって、またほんの少し上がって終わる音」シエラは首を傾げながら説明した。「優しいけど、聞くと何だか悲しくなる。でも恐ろしい感じもする」


鏡二は考えながら言った。「興味深い」


「不思議な音なんです」シエラは続けた。「私が寝る前と、朝早く目が覚めた時に聞こえた」


「両方、意識が薄くなる時間帯ですね」鏡二は考えながら言った。「人の脳は、そういう状態で特定の音をより鮮明に感じることがあります」


「じゃあ、私の気のせい?」


「そうとも限りません」鏡二は手袋をはめた手で眼鏡の位置を直した。「音には不思議な力があります。時に人の心の奥底にある記憶を呼び起こしたり、感情を揺さぶったりする」


シエラは心が躍った。初めて大人と対等に話せる気がした。


その時、学校のチャイムが聞こえてきた。シエラは急がなければならない。


「先生、本当に何かあるんでしょうか」


鏡二は深刻な表情で答えた。「分かりません。しかし、音は記憶と強く結びついています。特定の音は、人の心に埋もれた記憶を呼び起こすことがある」


「ウィロビー夫人が何かを覚えていて...」


「そうかもしれません」鏡二は考え込んだ。「あるいは、音そのものが、何かの始まりの合図かもしれない」


シエラは身震いした。「始まり?」


「人は時に、同じパターンを繰り返します」鏡二は遠くを見つめた。「特に罪悪感や後悔に囚われた時には」


その時、村の時計塔が正午を告げた。鐘の音が霧の中に響き渡る。シエラには、その音の中にも、どこか口笛の旋律が隠れているように聞こえた。


「次の日曜日」シエラは不安を込めて言った。「また何か起きるような気がする」


鏡二は彼女を真剣に見つめた。「なぜそう思うのですか」


「分からない」シエラは正直に答えた。「でも、そんな感じがするの」


シエラは走り始めた。学校に遅れてしまう。でも今日は、少し希望を感じていた。誰か一人でも、自分の言葉を信じてくれる人がいる。それだけで十分だった。


その夜、再び口笛が聞こえた。


今度はもっとはっきりと。シエラは時計を確認した。午前三時。月は雲に隠れ、村は完全な闇の中だった。


音は、前よりも近い。


窓からは何も見えない。霧が濃いというよりも、闇が全てを飲み込んでいるようだった。


シエラは布団を頭から被った。でも耳は塞がない。その音を、最後まで聞きたかった。


上昇。下降。沈黙。


そして遠くから、再び教会の鐘が鳴った。しかし、この時刻に鐘が鳴るはずがない。


シエラは凍り付いた。何かが始まろうとしている。


次の日曜日までは、あと六日。


窓の外では、いつもの霧が村を包んでいた。しかし今夜の霧は、どこか違っているように見えた。まるで、村の秘密を守ろうとして、必死になっているかのように。


夜が深まるにつれ、グレンミストの霧はますます濃くなっていった。そして、その中で、再び小さな口笛の音が響いた。誰にも聞こえない、小さく、哀しく、優しい音が。


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