5-2 非合法コピー案
夜のラボは、異常なほど静かだった。
誰もいないはずのフロア。セキュリティは低電力モード。
天井の照明は落ち、代わりにフロアライトだけがぼんやりと足元を照らしている。
玲奈は、モニター前に立っていた。
ホログラムの光が、彼女の顔に青白く当たっている。
タイマーは止まらない。
《削除まで:14:12:46》
その時、後ろから気配がした。
「まだ、間に合うかもしれない」
囁くような声。
工藤だった。
「……何を、言ってるの?」
「バックアップの話。
正規ルートじゃないけど……Y10の構造ログを一時退避させる方法がある。
保存先は企業ネットワークの外側。
バレたら、アウトだけどな」
「……非合法ってこと?」
「まあ、そう聞こえるよな」
工藤は、目の奥で何かを隠すように笑った。
それは軽口のようでいて、覚悟のようでもあった。
「どうして、そんなことを?」
玲奈の声は低かった。
震えてはいない。けれど、重かった。
「理由なんかいらないだろ?
お前、あの時泣いてたじゃん。
声にならなくても、ちゃんと俺には聞こえたよ」
玲奈は、何も言えなかった。
工藤は小さなデバイスを端末の下に滑り込ませた。
ホログラムには出ない、仮想裏モードのインターフェースが浮かぶ。
黒背景。赤い小さなボタン。
《COPY DATA UNIT:Y10(SECURED / OFF-NET)》
その隣には、1秒も更新されない静的な“選択肢”。
「押せば、逃がせる。
この記憶の塊を、システムの枠の外に出せる」
玲奈は、一歩、踏み出す。
指先が、ボタンの縁に触れる。
ほんの一瞬。
この指が押せば、彼は“存在する”ことになる。
けれどそれは、“記録違反”。
許されない手段。
でも――もう、彼に残された時間はない。
工藤の声が、さらに低く、細くなる。
「罪になっても、俺は責任取るよ。
でも、それでも――お前が押さなきゃ意味がない」
玲奈は指を浮かせた。
触れる。けれど、押さない。
数秒の沈黙が、廊下の闇よりも深くなる。
そして――
彼女は、そっと指を離した。
「まだ……彼の意思を聞いてない」
工藤は、わずかに目を細めた。
そして、デバイスを抜き取る。
彼女を責めなかった。
ただ、そっと言った。
「時間、ないぞ」
「知ってる」
「でも、あいつ――お前のこと、絶対待ってる」
そのまま彼は去っていった。
足音も残さず、夜の影に溶けるように。
玲奈は、もう一度ホログラムを見つめる。
赤いボタンは、まだそこにあった。
彼女の影が、それを覆っていた。
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