第3話 衝突

 喧騒でいっぱいになった空間は、とてもではないが、地元ではまず見ることのできない人口密度で形成されていた。


 その行き交う人ごみを、少し離れたところから見つめながら、梔子は自分の前髪を手櫛で整え、ショーウインドウに映った自分の姿を客観的に観察するよう努めた。


 普段よりも丁寧に整えてきた黒髪は、当然だが寝ぐせ一つなく、


 少し背伸びしたパステルカラーのロングスカートとブラウスは皺一つない。


 ようするに、気合を入れてきた、というわけである。


 冷房が過剰に効いた肌寒い店内で、飾り程度のヒールをカツカツ鳴らし、浮ついた心を落ち着かせようとする。


 だが、それが十分に機能を果たす前に、待ち人が来てしまった。


 少し遠めの距離から、軽く手を振りながら早足になって寄って来る彼女は、白い太腿を惜しげなく晒し、短いスカートの裾をゆらゆらと揺らしていた。


 桜色のオフショルダーから見える肩は、白く、澄んでいて、端のほうがほんのりと赤い。


 手首に付けたバングルが、照明の光を反射してきらきらとしていた。


「ごめん、絢香。お待たせー」


 折角、笑顔で声をかけてくれたのに、固まってしまう。


 どうしてそんなに肌を露出するのかが、理解に苦しむ。


 誰かに見てほしいにしても、もう少し品格を気にしてはどうか。


 ――…と、思っていた自分の目が、彼女の露出した肩や、太腿、屈めば見えそうな胸元に吸い寄せられてしまっていては、これはもう、日々の考えを改めざるを得ないようだ。


「…かわいい」


 鍵谷花音の眩しさに、同じ女として、ささやかな劣等感を抱かずにはいられなかった。それほどまでに、彼女の容姿は人目を引いた。


「え、何が?」


 そう聞き返されてから、自分が迂闊な発言をしてしまったのだと悟る。


 いや、別に友達の可愛さを褒め称えても、何も悪いことなどないのだ。


 ただ、そこに一抹のやましさというか、聞かれてはならない感情が含まれていたためか、梔子は焦りと驚きでいっぱいの顔を左右に振り、「何でもない」とうそぶいた。


 そうして、人混みをかき分けながら、梔子と鍵谷はショッピングを満喫した。


 訪れた店の多くが、鍵谷の要望によるものだったが、梔子は決して不満を口にすることも、考えることもなかった。


 一体何のために飾るかも分からない、実用性皆無のファンシーな雑貨。


 今日の鍵谷の服装と同じような、露出の激しい、いわゆるギャル向けのアパレル。


 甘いばかりで、何の味がしているのか想像もできない、どろどろのドリンクを扱った喫茶店。


 商品には何の興味も持てなかった梔子だが、それら一つ一つのために明るい反応を示す鍵谷からは、目が離せなかった。


 彼女の周囲だけ、室内であっても夏の日差しが照りつけているようだ。


 普段はフードで隠れている、彼女のサラサラのショートヘアと、柔らかな眉。


 自分が自然と頬を綻ばせていることに、梔子は気付けなかった。


 ショッピングを始めて小一時間。歩き疲れて、通路の真ん中に置いてあるベンチに二人で腰掛けていたときのことだ。


 次はどうするか、梔子のほうに行きたい場所はないのか、と鍵谷が粘り強く問いただしていると、不意に声をかけられた。


「おおー、花音じゃん。何してんの、こんなところで」


 歳の変わらない派手な服装の少女が二人、鍵谷のほうを、目を丸くして見据えていた。


 どこかで見た顔のような気がして、じっと二人を見つめていると、ぱっと目が合ってしまった。

 そのときに、ようやく彼女らがクラスメイトだということに気が付く。


 あからさまに、しまった、という顔で彼女らから視線を逸らした鍵谷は、返答に困り、呻き声を上げている。


 少女たちは、最初は自分がクラスメイトだと分かっていなかったようだが、会話が途絶えているうちに、首を傾げてこちらに話しかけてきた。


「あれ…?もしかして、梔子さん?」


 もしかしなくても、そうだよ、と何となく邪魔された心地になり、心の中だけで悪態を吐いていた梔子は苦笑いを浮かべた。


「はは、そうです。梔子です」


 十分上手に愛想笑いが出来たと思ったが、梔子の返答に、顔を見合わせた二人は、意味ありげな様子で笑い合った。


 チラチラと盗み見てくる眼差しが鬱陶しい。


 何だか小馬鹿にされているような気がした。


「へぇ、花音ってば、そういうこと?」


 鍵谷は何も答えない。答えたくない、というか答えられないというふうに見える。


「私たちの誘いを断ったかと思ったら…。ふぅん」


「ああもう、何?さっさと行って、ほら!」


 とうとう痺れを切らした鍵谷は、二人を追い払うように片手を振ったのだが、一向に彼女らが去る気配はない。


「最近、やけに真面目に勉強してたし、もしやって言ってたんだよねー?」


「そういう奴だよねぇ、花音って」


「うざいなぁ、もう…」


 自分を蚊帳の外にして進んでいる会話に、疎外感を覚えた梔子は、不服そうに唇を固くつぐんで俯いた。


 何だか、言外に馬鹿にされているのではと不安になる。


 派手なグループに属している鍵谷が、地味な自分と一緒にいることで、二人まとめてからかわれているのではないだろうか。


 …私が、お洒落じゃないから。


 酷く憂鬱な気持ちになっていた梔子の手をぎゅっと、誰かが掴んだ。


 顔を上げれば、頬に紅葉を散らした鍵谷がいた。


「ほら、行こう、絢香!」


「え、ちょ、ちょっと、花音ちゃん…!待って」


 私と手を繋いだりしたら、また馬鹿にされてしまう。


 くるりと首だけで振り返れば、二人のクラスメイトが肩を竦めながら、呆れ混じりで、「絢香だって」と呟いているところだった。


 続けて、「花音ちゃんですってよ」と唱えられた言葉に、梔子は全身が熱くなるのを感じた。


 怒りと羞恥、そして悔しさが未熟な心と身体を支配する。


 化粧室のある裏手のほうまで場所を移動したところで、梔子は強く鍵谷の手を振り払った。


 そういう拒絶的な態度を自分が出来てしまったことに、驚きを禁じえない。


 手を振りほどかれたことがよっぽどショックだったのか、鍵谷はしばらく呆然と立ち止まっていたのだが、少し経つと、決心したように、視線を逸らしていた梔子に近づいた。


「ごめん、嫌だったね」


 アイスのときと違って、心の底から出た謝罪の言葉だった。


 違う、そうじゃない。


 梔子は臍を噛む思いをしながら、つまらない様子の床を見つめて返す。


「こっちこそ、ごめん。私が、一緒だったから、馬鹿にされたんでしょ」


「え?いや、そうじゃなくて…」


「不釣り合いだよね、私、お洒落なんか気にしてないし。花音ちゃんに、恥かかせちゃった」


 こんなことを口にしても、鍵谷が困るということは分かりきっているのに、どうしても口が止まらなかった。


 私は、ただ一言、『あいつらなんて関係ない』と言ってほしかった。その一言さえ貰えれば、それで良かった。


 甘えている、と自覚している自分がいる一方、甘えて何が悪いと開き直っている可愛くない自分がいる。


 いじけたような態度を続ける梔子を、暗い表情で見つめていた鍵谷だったが、相手が言葉を詰まらせたのを好機と捉えたのか、一歩前に出て声を発した。


「本当に違うんだよ。あいつら、知ってたから、それで…」


「知ってた?何を?」


 詰問するような口調になってしまう。


 歯切れの悪い鍵谷の口調が、言い訳を考えているように思えたのだ。


 実際、鍵谷は梔子から受けた問いに即答出来ず、もごもごと口の中で何事かを呟いていた。


 その煮え切らない様子が、ますます梔子の中の不安と、当たり散らしたい不満とを増幅させてしまった。


「言い訳なんかして、情けない…」


 挑発と受け取られかねない呟きに、鍵谷が明らかにムッとした顔つきに変わる。


「じゃあ、言うよ?いいんだね、言っても!」


「知らないけど、言えばいいんじゃない?」


「分かった。言うよ、言うからね」


 乾坤一擲の勝負に出るかのような顔つきになった鍵谷は、大きく息を吸ってから、呼吸を止めるように黙った。しかし、その後も、何度か口を小さく開いて、閉じて、また開いて…、と繰り返すばかりだ。


 どう見ても、その一声を放つ勇気が湧かない様子の鍵谷に、とうとう我慢できなくなって、梔子はきっぱりと言い切った。


「格好悪いよ、花音ちゃん」


 建物の端に位置する化粧室前の通路とはいえ、人通りが全くないわけではない。


 案の定、時折近くを通り過ぎる人々は、二人の剣呑な様子を何事かと横目で観察しながら遠ざかっていく。


 普段は穏やかで、しおらしい姿のほうが目立つ梔子から、批判の言葉を受けた鍵谷は、いよいよ顔を真赤にしてみせた。


 それでも何も言えない彼女を背に、梔子は大股でその場を去った。

 そして、段々、鍵谷との距離が離れていくのを肌で感じながら、どうして追いかけて来ないの、と苛々するような、むず痒い気持ちを抱えているのだった。

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