ある歴史家の民俗奇譚

鈴蟲夜音

無欲の祠 〜朱羽神の山にて〜

無欲は富に勝る財産である。故に運命はその者に富を与えその価値を下げようとする。

富を得た無欲者は、欲を覚え凡人となっていく。

マヨヒガという伝承が東北にはある。迷い家と書くその家は訪れた者に富を与えるのだという。

しかし全ての来訪者が富を得られるのではなく、無欲者に限るのだそうな。

その家は無人だが生活感があり、その家の家財を持ち帰ることができることになっている。

それを持ち帰った者は金持ちになれるのだという。


これは民俗学、つまり昔話である。

このような話は各地に溢れている。花咲か爺さん然り、泉に落ちた金の斧然り。

世界中で昔から人は無欲であることを求められている。

しかし人は富を得た瞬間から、より大きな欲に埋もれていくものである。

古来より欲に塗れた登場人物の末路は、同じく破滅である。

ならば富を与えてくる神は、人を堕落させ破滅させることを楽しんでいるのではないかと考えてしまう。


話変わり、今私が訪れている土地にはこんな伝承がある。

大きく鮮やか朱色の羽を持つヤママユガを見ると、誰もがその魅力に取り憑かれてしまうらしい。

その蛾に魅せられ追った者は見知らぬ土地に辿り着き、死ぬまで出られないのだという。

そんな村で先日、ここから少し離れた山奥で白骨化した死体が大量に発見された。

この村は明治維新の際に戦場になった場所に近く、破れた幕府側の志士による集団自決ではないかという推測がされたことで警察に同行する形で、医者と一緒に歴史学者として同行することになったのである。


この村は、人口3000人ほどの小さな集落である。

特に目立った特産品もなく、若い世代は村を出て働いている所謂出稼ぎである。

役場の方曰く、自然を楽しみに来られる観光客も多少はいるらしいが、数日も滞在することなく帰ってしまうらしく、いざ在住してくれる若者は皆無だということだ。

ひどい時には、宿場に戻らずに散らかしたまま帰ってしまう学生もいたそうだ。

確かに見かけるのは中年から老人ばかりで、若い世代が抜けてしまっている。絵に描いたような長閑な村、それが第一印象である。

色々と観光するような場所でもない為、突然入った依頼など早く切り上げて準備をしたい所であったが、歴史資料館の職員より、ヤママユガの伝承を耳にしたのである。


伝承や宗教は基本的に、生活に基づいた内容で、戒めや風習といった制度であり、しきたりを受け継いできたその土地の法である。

では、この伝承にはどのような戒めがあるのだろうか?

単なる怪談としか思えない内容に、逆に興味を持ったのである。

もしかしたら知らない人について行ってはいけないという単純な内容なのかも知れない。

しかし、この不気味さが私の学者としての知識欲を掻き立ててくる。

私は、発見された白骨遺体よりも、この蛾に興味が湧いてしまっている。

私の山入りは明日の予定である。

宿の主人が採取した山菜の蕎麦を啜り、早めに床につくことにした。


山に入ったその日、私は胸の奥に微かなざわめきを感じていた。

冷たい朝の空気に包まれながら、ふと、朱色の光が木々の間に揺れるのを見た。

あれは、例のヤママユガだろうか?

否、そう思いたくはなかった。万が一伝承が本当ならば、私はまだ死にとうない。

「先生、こっちです」

若い刑事の声に我に返り、私は声の方へ歩を進める。木の根元に、古びた布が絡まった骸が横たわっていた。よく見ると、それは明らかに江戸末期から明治初期にかけての衣服だった。

「死後、少なくとも百年は経っていますね」

付き添いの医師が静かに告げた。

その瞬間、背後から、ひゅう、と風が吹いた。あたり一面が朱に染まり、木漏れ日の間に一匹の大きな蛾が舞い上がる。それは確かに、異常なまでに美しかった。

目を奪われた刑事の一人が思わず後を追う。

「戻れ!」私は声を荒げたが、男の姿はもう見えなかった。

ふと気づくと、あたりの空気が変わっていた。音が消え、風も止んだ。木々は同じように見えるが、何かが違う。この場所は──マヨヒガなのか?

私はふと足元を見る。そこには、誰かが落としたのか、小さな櫛が転がっていた。拾い上げた瞬間、視界が揺れた。

「……ようこそ」

耳元で女の声がした気がした。


囁かれたその声は、風のように消えた。しかし、それをきっかけに私ははっきりと悟った。ここは現世ではない。木々は不自然なまでに静かで、空の色もどこか灰色がかっていた。先ほど拾った櫛は、手の中で不気味なほど温かい。

辺りを見回すと、先ほどまであったはずの遺体も、警察の仲間も、医師の姿も消えていた。代わりに現れたのは、古びた茅葺き屋根の家。囲炉裏の煙がゆらりと昇り、確かに「生活感」があった。

──マヨヒガ。

民話の記憶が脳裏をよぎる。無人の家、富、そして無欲。

だが、私は無欲だろうか?

歴史的真実を求め、知識に飢え、ここまで足を踏み入れた自分が?

いや、それを問うている時点で、既に欲を持っているのではないか。

家の中に足を踏み入れると、床の間に古い巻物が飾られていた。その表題には、こう書かれていた。

「朱羽神顕現録(すわしんけんげんろく)」

その筆致には見覚えがあった。江戸末期のある知識人の手によるもの。顕現録とは、神道において神々が依り着き顕現した記録だ。朱羽神というのは聞いたことがない。土地神なのだろうか?朱い羽が件の蛾を思い起こさせる。

私は巻物を開き、読み進める。そこにはこう書かれていた。

『朱羽の神は、元は山野に棲まうただの蛾なりしが、人の欲を喰らいて力を得、神となれり。

欲深き者を迷わし、永劫の館に閉じ込め、欲を削ぎ落とすまで解き放たぬ。されど、無欲の者がこの館に至れば、その者に富と叡智を授けるなり。』

私はそこで気づいた。これは、試されているのだ。

この空間そのものが、私自身の心を反映した鏡のような場所なのだと。

だが、その時だった。

背後で、軋むような音がした。振り返ると、家の入り口に、あの刑事が立っていた。だが、その目は虚ろで、口元には微笑とも苦悶とも取れる歪んだ表情が浮かんでいた。

「先生……あの蛾が……俺の願いを……」

彼の手には、大きな金塊が握られていた。しかしその腕は干からび、皮膚はひび割れていた。欲を手に入れた代償か──。

彼が倒れ込むと同時に、家の障子がすべて音を立てて閉まり、外の景色が消えた。

どこかで、蛾の羽音が鳴った。

私は崩れ落ちた刑事の体に駆け寄った。すでに脈はない。皮膚は紙のように乾き、目は大きく見開かれていた──何かを見たまま、恐怖に凍りついたように。

その時、彼の懐から一冊の手帳が滑り落ちた。拾い上げて開くと、走り書きのようなメモが目に入った。

「あの蛾を見たのは俺だけじゃなかった。村の者は隠している。三年前に失踪した大学生も、同じ場所で見たという話がある。

調べるなら『篝火祭』の記録を追え。村の神事にヒントがある。」

篝火祭──それは、村の古い祭りで、今は廃れているが、かつては朱色の羽を模した灯籠を焚き、何かを封じるために行われていたという記録があったのを思い出した。

部屋の奥にある小さな仏間を覗くと、そこに古い神棚があった。その前に、見慣れた顔があった。

……医師だった。

彼は静かに座っており、私に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。

「先生、どうやら私たちは“同じ場所”を見ていたようですね」

「“同じ場所”?」

「三年前、私の娘が失踪しました。あの山に入ったまま、戻らなかった。警察は事故か熊だと片付けましたが、私は違うと確信していました。だから今日、私は同行を願い出たのです」

彼はポケットから一枚の写真を取り出した。写っていたのは、無邪気に笑う少女と、その背後に──かすかに写った、朱色の羽。

「この写真、娘が山に入る直前に撮られたんです。背後の羽……どう思います?」

私は息をのんだ。まさに、私たちが見た“あの蛾”だ。

「それに、妙な話を聞きました。この村では昔、“神隠し”は神の怒りではなく、“神の選別”だとされていたそうです。選ばれた者は、無欲であれば富を得、欲に塗れた者は……こうなる」

彼は刑事の亡骸を見下ろす。

「つまり、マヨヒガとは“選別装置”だと?」

医師は頷く。

「そして、この屋敷は……私たちが“見つけた”のではなく、招かれた。選ばれた者として、あるいは試される者として」

その時、仏間の襖がひとりでに開いた。

奥には階段があり、地下へと続いていた。古びた木の段は踏みしめるたびに軋み、かすかに冷気が漂ってくる。

階段を降りきると、そこは石でできた小さな祠のような空間だった。中心にあったのは、漆黒の台座──そして、その上に、朱色の蛾が一匹、じっと羽を閉じて止まっていた。

蛾のまわりには、無数の遺品──髪飾り、万年筆、懐中時計……そして、大学生の学生証もあった。

「これが、“願いの代償”……か」

その時、蛾がふわりと羽を広げた。その目が、こちらを見た気がした。

医師が一歩、前へ出た。

「私は……娘に会いたい。ただそれだけだ」

朱の羽が、静かに彼を包み込んだ。

──次の瞬間、医師の姿は消えていた。

残された私は、蛾と、沈黙の祠の中に取り残された。

だが──私はもう一つ、気づいていた。蛾の背後にあった、石碑の文字。

そこには、かすれて読みにくいながらも、こう刻まれていた。

「すべての願いは、代償を伴う。

無欲を装う者よ──見透かされている。」

私は震える手で、懐からかつて譲り受けた破魔の小刀を取り出した。これで、自分が試される番だ。

私は祠の奥、蛾が消えた後に残された台座を見つめていた。医師は本当に「消えた」のか──それとも「連れて行かれた」のか。答えは何一つ残っていない。

石碑の裏側に何か刻まれているのが目に留まった。苔を払いながら、慎重に目を凝らす。

「其は人に非ず。

欲を持たざる者の皮をまとい、神と偽りて座す。

選ぶは己の糧。拒むはその死。」

……これは神ではない。何か、異形の存在が“無欲者”を騙り、選別という名目で欲深き者の命を喰らっている。

私は自分の記憶を探る。マヨヒガの伝承──無欲の者だけが富を持ち帰れる。だが、それは「持ち帰れた者」たちの話だ。本当に、欲のない者が存在するだろうか?

──いや、違う。

「欲を持たぬ者」は、最初から存在しない。

「欲がある者」が、欲を否定した時、喰われる。

「無欲を自覚しない者」だけが、この地から出られる。

つまり、“自分が無欲である”と意識した時点で、罠が発動するのだ。

ふと、部屋の隅に古い木箱を見つけた。中には束ねられた古文書、そして村の古地図。

その一つに「篝火祭・儀式の記録」と題された巻物があった。

「朱羽の神は、本来外より来たるものなり。

かの者、最初に見せしは“富”、次に見せしは“故人”、最後に示すは“解放”。

然れど三者すべては虚構なり。真実を見抜いた者は、祠より生還す。」

──虚構?

では、医師の娘は……?

私は心に刺さる不快感を押さえつけ、巻物をさらに読み進める。

「真に選ばれし者は、第三の間に辿り着く。

そこには“本物の願い”が封じられている。

欲に塗れし願いでなく、失われたものの“意味”を問う声のみが、門を開く。」

失われたものの“意味”……。

私は地下祠の奥に、さらに小さな通路が続いているのを見つけた。灯りもなく、ただ闇が広がる中、私は足を踏み入れた。

闇の中に、一つだけ浮かび上がる像があった。

それは、少女の像──医師の娘だった。

だがその表情は笑っておらず、泣いてもおらず、ただどこか、空虚だった。

像の前には、奇妙な文様が掘られた円環と、小さな石板があり、こう書かれていた。

「問いかけよ、されば扉開かれん。

問うべきは“何を失ったか”に非ず、

“なぜ失われねばならなかったか”なり。」

私は気づいた。この祠は、願いを叶える場所ではない。願いの“意味”を試される場所なのだ。

つまり、私がここで医師の娘に会おうとするならば、それが「哀れみ」か「執着」か「真実の探求」か、それを問われる。

私は、問うた。

「彼女はなぜ、消えなければならなかった?」

そして、静寂の中、像がわずかに動いた。

少女の像が動いた──かすかに、だが確かに。その顔にうっすらと浮かんだ微笑は、哀しみと赦しの入り混じった、何とも言えない表情だった。

「……答えたね」

声がした。少女の像の影から現れたのは、朱の羽を持つ巨大な蛾──否、「それ」はもう蛾ではなかった。

人間の輪郭に近い、だが羽を持ち、顔のない異形の存在だった。蛾の羽根をまとった“人の形”が、祠の奥から現れたのだ。周囲の空気が歪み、現実と幻想の境界が崩れていくのを感じた。

「お前は問うた。“なぜ失われねばならなかったか”と。

それはつまり、“意味”を問うたということ。

ならば教えよう、私の正体を」

その声は、直接頭の中に響いた。まるで夢の中の声のように、明瞭でいて現実感がなかった。

「私は欲を喰らうもの──人が生み出した“神”の残滓にすぎぬ。

願い、恐れ、執着、それらの総意が生み出した集合体。

マヨヒガも、朱羽の神も、すべては人が作り出した“業の形”なのだ」

私は凍りついた。今ここにいるのは、“神”ではない。人間が生み出した怨念と願望が物理化した存在──言うなれば、民俗そのものが形を取った存在。

「人は欲を捨てられぬ。だから私は満たされ続ける。

だが時に、意味を問う者が現れる。

それこそが、私の存在を終わらせうる“問い”だ」

その瞬間、像の台座がひび割れ、祠の奥に閉ざされた扉が開いた。

そこには、医師の娘──まだ幼い彼女の姿があった。だが、どこか幻影のようにぼやけている。

「彼女は死んだわけではない。

私の中で“願い”として留められている。

彼女を“本当に解放”するには、父の願いを超える理解が必要だった」

──父の願いとは、「会いたい」こと。

だがそれは、彼女を“現実から引き戻す”という欲だった。

私が問うたのは、「なぜ彼女が消えたのか」──つまり、「なぜ父と娘は別れねばならなかったのか」。

「……人は、愛するがゆえに所有しようとする。

だが、愛とは手放すことでもある。

父はその覚悟を持てなかった」

私は静かに歩み寄り、幻の少女に手を伸ばした。

その手は、私の指先にふれた瞬間──ふっと、霧のように消えた。

その直後、私は祠の外に立っていた。

朝日が差し込む山奥。足元には刑事の遺体が、もとの位置に戻っていた。医師の姿はない──だが、彼の手帳だけが、私の懐に残されていた。

私はページをめくる。最後のページに、一言だけ、文字が浮かび上がっていた。

「ありがとう。これで、彼女は“本当に”還れた」

──私はすべてを理解した。

この事件は、ただの民俗学的好奇心で関わるべきものではなかった。

これは、人間の「欲」と「祈り」の深淵を覗く儀式だったのだ。

私は村を離れ、手元に残った一片の朱色の羽を、静かに封筒に入れた。

マヨヒガは今もある。だが、その「意味」を知らなければ、決して帰ってこられない。

私は東京へ戻った後も、あの出来事が頭から離れなかった。医師の手帳に書かれていた「篝火祭」「願いの虚構」「マヨヒガの選別」──すべてが、ただの伝承や民俗の枠を越えて、現実に干渉していた。

そこで、私は大学の民俗学資料室に通い詰め、かつての篝火祭に関する記録を徹底的に洗い直した。

やがて、一冊の古文書にたどり着いた。

それは明治初期、神職に連なる人物が私的に記した日記であり、政府に隠された「禁史」とされていた。中にはこうあった。

「文久三年、山中に異形の神を見た者あり。

羽は朱にして炎のよう、眼は星のごとく輝くという。

それに魅入られた者は、皆“幸福な死”を望み、消えていった。

神職の我等は、それを“マヨヒガ”として囲い、御神体とした。

だが、あれは神ではない。“信仰”という餌を得て、育つものだ。

ゆえに我等は篝火を焚き、選別を行い、喰われる者と喰われぬ者を区別せねばならぬ。

さもなくば、我々の“罪”が顕現する」

“罪”──この一文に私は戦慄した。

つまりこの存在は、ただ人の欲を試すために生まれたのではない。人間が意図して封じた“災厄”であり、彼ら自身の過去の行いの代償として残されたものだった。

さらに別の記録には、明治維新前後、この地に幕府軍が立て籠もった際、村の者が朱羽の存在を利用して、敵兵を“導いた”ことが書かれていた。

彼らは信仰を口実に、敗残兵を神の元へ送り、無傷で村を守ったのだ。

つまり、マヨヒガとは──

富の象徴ではない

無欲者への褒美でもない

罪人を飲み込む口であり

信仰と欲の歪みによって生まれた“人間の影”だった


私は再びあの村へ向かった。理由は一つ──真実を記録するため。

だが村は、私のことを一切覚えていなかった。

刑事も、医師も、「そんな者は来ていない」と村役場で言われた。

私は調査資料を見せたが、役場の職員は冷たく言い放った。

「先生、ここに篝火祭なんて行事、ありませんよ」

その時、気づいた。

あの出来事のすべては、“祠の外”には存在しない。

記憶も記録も、現実から切り離されていた。

つまり私は、ある“層”に入ったまま戻ってきたのだ。

現実の皮をかぶった別の現実──マヨヒガの周縁。

私は残された羽根と医師の手帳を国立民俗博物館に寄贈したが、数日後、羽根は忽然と消え、手帳は「白紙」に戻っていた。

唯一残ったのは、私の記憶と、私の書いた“報告書”。

だが──それを読んだ編集者は、こう言った。

「すごく面白いですよ、先生。でも、これは……フィクションですね?」

私は笑って答えた。

「もちろん、ただの昔話ですよ」

だが、心の中では確信していた。

マヨヒガは、今もどこかにある。

欲深い者が足を踏み入れれば、また“試される”。

朱の羽が、いつか誰かの背後でふわりと揺れるその時まで──

──了(ただし、記録には残らない)


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