「AIと俳句」の元となった考え
Tomato_Ichigo
哲学的に人の心について考えてみたら
ロボットに心はあるのか。という内容の本を読んだ。
ロボットは、蓄積したデータの中からたくさんの試行の上で人間っぽい答えをだし、
人間は自らが考えて新しい物を生み出しているため人間とロボットは異なる思考をしているのだ。
しかし、作者が作った作品を読者が想像して作品は作り上げられているため、
ロボットが作った作品でも人間の想像力によって作品として成り立っているのではないか、という指摘もあった。
私はこの本を読んで、人間の創作物とロボット・AIの創作物の違いとは何かということに深く疑問を抱く。
ロボットは情報を与えられたことによってのみ作品を作り上げることができるが、
人間はゼロから自分の力でイチを生み出すことができるという指摘があった。
しかし、それは本当なのだろうか。
果たして人間はゼロから自分独自の物を生み出しているのだろうか。
私は、それは必ずしも正しいとは言えないと思う。
もちろん、自分の感性に従って“芸術”というものを生み出すことのできる天才という人もいるかも知れないが、
多くの人にとって新しいものを作るというときには参考になりそうな類似の作品を学んだり、その作品の歴史や背景を学ぶことが多いのではないか。
それは、ロボットやAIが行うインプットによる情報処理と同じではないのか。
人間でさえも、与えられた情報を処理して作品をつくっている。
そのため、蓄積したデータのアウトプットをしているのはロボットだけだとは言い切れないと思う。
では、果たして“人間の作品”とは一体何なのか。
この問いはchat GPTの出現により、
人間による創作というものの価値に疑問を呈されている現代において非常に重要なものではないかと思う。
人間の作品だろうと、
ロボット・AIの作品だろうと、それらを鑑賞するのは人間である。
多かれ、少なかれ鑑賞する時には必ず読者の感情や想像がその作品を最終的に形作る。
どんなに作者がこう読んでほしいと思っていても、読者が必ず作者の思惑通り読んだり考えたりするとは限らない。
どんな作品でも、必ず人間の思考が入るということは、逆をいうとロボット・AIが作った作品でさえ、鑑賞する時には必ず人間の心を通す。
それならば、ロボットやAIが作った作品を鑑賞するも良いのではないか。
また私が川柳を作る時、表現したいことを言葉にのせるのではなく、語感や雰囲気が気にいった文字の羅列に思いを後から考えることもある。
これなら、前述したロボットやAIが作った作品を人間が自分なりに感じていることと同じであると言えるのではないのか。
たくさんの疑問を生み出したこの本であったが、
この本で私が一番強く感じたことは、誰が作った作品でさえそれらの作品を楽しむことができるのは人間だけであること、
人でさえロボット・AIでさえ質の高いアウトプットをするにはバリエーション豊富な知識としての作品を楽しみながらインプットする必要があるということである。
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