第10話 雨

 目が覚めたら、亜矢は病院にいた。あれから、ヒメカが警察と救急車を呼んでくれたらしい。彼女は今警察であれこれ説明しているそうで、すぐには会えない物の元気にしているらしい。

 もうすっかり夜が明けていて、カーテンからは朝の白っぽい光が射し込んでいた。

「まあ、大したことなくてよかったわ」

 太った看護婦がカラカラと明るく笑った。

「でもまあ、泥棒とはちあわせしたんじゃびっくりするわよねえ。気絶するのも当たり前だわ。ケガがなくてよかった。制服はどこかに引っ掛けたみたいで、穴が開いてたけどね」

「え、あたし確か撃たれて……」

 かすかな火薬の匂いと、胸のしびれるような衝撃と、焼けるような痛みの記憶が生々しくよみがえって、背筋が寒くなる。

 亜矢が撃たれたはずの胸を押さえても、痛みどころか治りかけの傷のかゆみすらない。

「ああ、かわいそうに、怖い夢を見てたのね。大丈夫、すぐに家に帰れるから」

 冗談じゃない。あれが夢なわけはない。もう少しで亜矢はそう怒鳴りそうになった。 看護婦が病室を出ていったのを見計らって、指輪の中の気配をさぐる。

「レイ……?」

 空っぽだった。指輪の中に、なんの気配もしなかった。


 クリオの事務室で、宮波は新聞をたたんでバサッと机に放り投げた。社会面の隅に、ヒメカの屋敷に泥棒が入った事が小さく載っていた。そして犯人はいまだ逃走中だという事も。

 主人の不機嫌さを見て取ったのか、ノーラがピクッと顔をあげた。

「やれやれ。あれほど待つように言ったのに、勝手に実行して。案の定失敗したじゃない」

 突き刺さる針を避けるように、白い犬の背をゆっくりとなでた。

「これから、あの男が警察に逮捕でもされたら、こっちにまでとばっちりがくる。仕方ないわね。ノーラ、あの男を殺しなさい」

 白い犬は、唸りもせず宮波をみつめている。

「屋上に男を呼び出すから、あなたが追い詰めて殺すの。あなたに怯えて飛び降りれば自殺に見えるでしょう。なんなら傷が残らないようにくわえて落としてもいい」

 犬の黒い目が宮波をにらみつけた。言葉を発っさなくても、その命令に従いたくないと思っている事が分かる。そして、宮波の事を噛み殺したいほど憎んでいる事も。

「ヴヴヴヴ……」

「なあに、その唸り声。不満そうね。人を殺すのが嫌なの?」

 宮波は、さり気なく針の上に手を乗せた。そして半透明の針をノーラの背中に一気に押し込んだ。

 ギャンギャンとノーラの口から悲鳴があがった。ノーラは体をよじらせる。針の刺さった箇所からは、血のように光の粒が滴り落ちる。

「あなたに拒否する権利はないのよ。私が主人なのだから」

 宮波は針から手を放した。ノーラはぐったりと床に伏せる。唸るのは止め、荒い息を繰り返していた。

 息が整うのを待って顔をあげると、ノーラはキュウンとねだるように声をあげた。

「はいはい、分かればいいのよ」

 机の下に置かれた袋から、宮波は一握りのドッグフードを取り出した。それを手の平の上に乗せたまま、小さく呪文を唱える。ドッグフードの輪郭が二重になる。本物のドッグフードの上に、立体映像のドッグフードが重なっているように。でなければ、ドッグフードの幽霊が現れたように。

「食べていいわ」

 牙をむき出し、ノーラが食いついた。幻覚のドッグフードが消えた。犬が牙をかみ合わせるたびに手の平に残った実物も、ボロボロと崩れ、消えていく。

 盛りあがった犬の傷口が、ほんの少し腫れをひかせた。ポタポタとたれていた光の粒が止まる。

 幽霊に傷をつけて支配する。それが彼女の術だった。呪術でつけられた傷は絶えず痛み、術者の与える餌を食べる以外和らぐ事はない。しかも、激痛がやわらいでいるのは短い間だけだ。再び痛み止めをもらいたいために、この犬は宮波に従わざるをえない。

 せっかくこの犬を支配しているのだから、使えるだけ使わないと。

「あの女の子も、なんとかしなくちゃねえ」

 宮波はけだる気にノーラの背をなでた。


 検査を終えて、夕方家に帰った亜矢は、着がえもしないまま壁にぐったりと寄りかかっていた。雨が降ってきたようで、細かい雨粒がアスファルトを叩くノイズのような音が響き始めた。

 そっと指輪を叩いて出てこいの合図をしたけれど、反応はない。それはそうだろう。内緒で、レイを殺すためのお守りを持っていたのだから嫌われて当然だ。あのペンダントを見た後の、彼の顔。あのペンダントがなんのための物か、一目でわかったに違いない。

 レイは指輪から長く離れる事はできない。そのうちに帰って来る。けれど、帰って来た所で前のように笑ってはくれないだろう。

 流れてきた涙をぬぐう。

(何泣いてるんだろう。私)

 泣くぐらいだったら、最初からペンダントなんか受け取るべきじゃなかったのに。最初から『私の生命力を吸い取っているのか』と聞けばよかったのに。

(そうか。あたしは怖かったんだ)

 もちろん、自分の生命力を削られていると言うのも怖かったのもあるけれど、本当は……

(本当にレイに騙されてたらどうしようかって思うと怖かったんだ)

『そうだよ。俺が完全に死なないように、どうしてもお前のそばにいる必要があったんだ』

 そう言われるのが怖かった。好きだと言ってくれた言葉が、嘘だと言われる事が。

「何泣いてるの?」

 真横から急に声をかけられ振り向くと、レイがどこか疲れた表情で立っていた。

「レイ?」

 レイは力なくだが微笑みかけてくれていた。その表情が信じられなくて、思わずレイの顔をまじまじとみつめる。

 レイは幽霊特有の身軽さで、ふわりと亜矢の隣に座ってきた。

「レイ、あんたどこ行ってたの?」

 亜矢はごしごしと涙をぬぐう。嬉しいはずなのに、自分でも驚くぐらい普通の口調だった。我ながらかわいくない性格だと思う。

「お寺。成仏できるかと思って」

「お寺?」

「うん。やっぱりすぐに指輪に戻されちまった」

「その様子じゃ成仏できなかったみたいね」

「ああ。お経聞いてたら、花畑の幻覚は見えたけど」

「ちょ、それ惜しい所まで行ってたじゃない!」

「でも、駄目だった」

 レイは困ったような笑顔を浮かべた。

「でも驚いたよ。さすが抜け目ないのな。幽霊を浄化するペンダントを用意するなんて」

 どういうわけか、レイのその言葉が妙に頭にきた。

 亜矢は自分のためにレイを消すペンダントを用意していたのに、それを許してくれるなんてどれだけ人がいいんだろう。なんだか自分がひどい人間なのは分かっているけれど、それを遠回しに思い知らされた気がした。最低な奴だとなじられた方がまだ楽だったろう。

「何よ、あんただって私を利用していたんじゃないの! 友達から聞いたのよ」

「え? どういう事だよ」

 幽霊が存在するためには、活きてる人間から生命力を吸い取らないといけない事を、亜矢はレイに話した。

「私が死んでもかまわなかったんでしょ? こっそり私からエネルギー吸い取って……」

「違う! 俺がお前の生命力を吸い取っているなんて、言われるまで知らなかったよ!」

 噛み付きそうな勢いでレイは否定した。

 大きく息を吐いて、彼は気持ちを落ち着かせたようだった。いつものおもしろがるような笑みを浮かべて見せる。

「なあ、亜矢」

 レイは静かに話しだした。

「俺、お前に生命力を吸い取ってるっていう話を聞いた時、なんでお前に惚れたのか分かったよ」

「な、何言ってるのよ、いきなり!」

 熱くなった頬をぱたぱたと扇ぐ。

 レイは、照れるでもなく真剣な表情で亜矢の顔を見つめた。

「きっと、生命力と一緒にお前の気持ちというか人柄みたいな物が流れ込んで来たんだ」

「それはそれは。吸収したらお腹を壊しそうだこと」

 亜矢の自虐的な冗談にも、レイは笑わなかった。

「お前は結局ペンダントを使わなかったじゃねえか。俺が手を乗っ取った時にあれだけ怖がってたのに」

「それは……」

 レイを消さなかったのは。いや、消せなかったのは。

(ええい、認めちゃえ! レイと一緒にいるのが楽しかったからよ!)

 夕飯の時に二人でくだらない話をするのが。あのおもしろがるような笑顔が。生命力を吸われていると本当に確信ができるまで、一緒にいたいと思った。

「それに、公園でヒメカを見に行った時、本当に彼女の事を心配してただろ?」

「……」

(確かに、少し気にはしていたけど)

 レイが亜矢の顔を見て笑った。

「な? 前にも言ったろ? 自分で思っているより、お前はいい奴なんだよ」

 不意に、レイはさびしそうな顔になった。レイがこんな表情をするのは珍しくて、何か不安な気持ちになる。

「なあ。そのお守りで俺の事を消してくれないか」

 半透明の茶色の瞳が、亜矢を捕らえた。

「な、何言ってんのよ!」

「なんかさ。俺がいるとお前の命が危ないみたいだから」

「だって、記憶はどうするの?」

 レイは、どうしても自分の記憶を知りたいと言っていたはずだ。それを諦めるなんて。

「このペンダント使うと本当に消えちゃうんだよ? あんた殺した犯人、まだのうのうと生きてるかも知れないのよ? 兄弟は? 親は? 分からないままでいいの?」

「でも仕方ないじゃねえか。お前の命削りながらこの世にいたいとは思わねえよ。悪霊になりたいわけじゃない」

 そう言って、レイは顔を背けた。

「そもそも、さ。最初っから、ずっと一緒にいられるわけないって薄々感じてたし」

『ロミオとジュリエットがうらやましく思えるくらいの悲恋だわ』

 そんな事を言ったのは誰だっけ。 

 外からの薄明りが、窓を流れる雨の影をレイに映し出した。透明な影が、髪をつたい、ほっそりとした頬と首筋をなぞっていく。雨の影は着物の衿の白に溶けて消えた。

 その姿にみとれていた亜矢は、レイの輪郭がぼやけているのに気がついた。着物ごと、胸の辺りが塗り立ての絵の具をこすったようににじみ、薄くなっている。

「その体……」

 『存在のためのエネルギーを生きている人間から吸い取っている』呟いた後で、莉子の言葉がよみがえった。

「エネルギーを人間から奪えるなら、逆に人間に与えることもできるんじゃないか?」

 レイの言葉に、亜矢は傷のない自分の胸に手を当てた。じゃあ、この傷が治ったのはレイが治してくれたんだ。

 でも、そうしたらレイが存在するための力がなくなってしまうんじゃないか?

「大丈夫だよ。少しもらった力を返しただけだ」

 亜矢の心を読んだようにレイが笑った。 そろそろと、亜矢はレイに手を伸ばした。重ねようとした指先は、レイの手を擦り抜けて、じゅうたんの毛に触れた。

 それが悲しくて、亜矢は気づいたらまたぽろぽろと涙をこぼしていた。

 たぶん、自分が幽霊だという事を忘れていたのだろう。レイの手が、亜矢の頬に伸びた。

けれど、指は亜矢の涙をぬぐう事もなくすりぬけていく。

 しばらく二人とも口を開かなかった。その静寂で、雨音が大きくなったような気がした。

「あの……」

 何をしゃべろうとしたのか、レイが口を開いた時だった。

 パン、と外で巨大な水風船を落としたような音が鳴り響いた。誰かの悲鳴が聞こえてくる。嫌な予感に突き動かされるようにして、亜矢は傘をひっつかむと家を飛び出した。

 ザアザワと言う人の話声や、足音の方へ走って行くと、通りに人だかりができていた。口を押さえて女の人がうずくまっている所を見ると、あまり心和む光景ではないようだ。

 何が起こっているのか、騒ぎの中心に行こうとしたけれど、開いた傘がバリケードのようになってたどり付けそうにない。しかし直接現場を見られなくても、周りのざわめきから何があったのかは伝わって来る。

「飛び降りだって」

「あれは即死だよ」

「男。中年の」

 辺りにはどこか後ろめたそうな、控えめな囁きに満ちていた。

「ちょっと見てくる」

 幽霊の利点をフルにいかして、レイが人込みの中に消えていった。と思ったらすぐに戻ってきた。しかも、何かひどく焦っているようだ。

「おい、逃げるぞ」

「え? 何で?」

 救急車とパトカーのサイレンが近付いてくる。

「あの泥棒だ! 奴が死んでる!」

 亜矢は人ごみに背を向けて走りだした。昨日盗みに入った奴が、自殺するわけはない。絶対に、殺されたのだ。

 公園の傍を駆け抜けようとした時だった。急に視界いっぱいに大きく、黒い手袋が広がった。隣の茂みから手が突き出され、顔を覆われたのだと気がついた時には、もう片方の手で肩を押さえられていた。もがいた拍子に、傘が転げ落ちる。

 さっきはとっさの事で気がつかなかったが、顔を覆った手は湿った布を持っていたらしい。それで口を押さえられる。ツンとシンナーのような匂いがした。

(何よ、これ!)

 思い切り体をよじってみるが、巻き付いた腕はまるでコンクリートでかためられたように肩からほどけない。すぐそばには大勢人がいるのに、皆やってきた救急車と死体に夢中で気づいていない。

 助けを呼ぼうとしてくれたのだろう。にじんだ視界の中で、レイが可視化して野次馬の方に近付いて行った。

 近くに停められた自動車のドアが開く。白い大きな影が飛び出してきた。その影が、レイを覆い隠した所で亜矢の意識は途切れた。 

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