第42話 マッスル・ビスケットと、反撃の厨房
スパルタリアの宿舎は、王族をもてなす場所というより、石造りの兵舎そのものだった。 暖炉の火だけが、無愛想な部屋に唯一の温かみを与えている。
「…すぅ…すぅ…」
ようやく泣き疲れて眠りについたアレクの寝息だけが、重苦しい沈黙を破っていた。 あの後、アストリアからこっそり持ち込んだ「おしゃぶり用クッキー」を与え、マントにくるんであやし続けた結果、息子はようやく悪夢から解放されたようだ。
「……あの筋肉ダルマめ!!」
その静寂を、今度はレオニード陛下の怒声が引き裂いた。彼は、部屋の中を熊のように行ったり来たりしながら、拳をわなわなと震わせている。 「息子の前で! 私とマティルドに! あのような侮辱を!! このまま引き下がれるか!」 「陛下、お声が大きいですわ。アレクが起きてしまいます」 「む…! す、すまん…。だが、マティルド!」
「国王陛下のお怒り、ごもっともにございます」 壁際に座り込んでいたアルト様が、幽鬼のような青白い顔で、ゆっくりと口を開いた。その手には、空になった胃薬の小瓶が握りしめられている。 「ですが、陛下。外交交渉において、感情的な激昂は、相手に更なる弱みを見せるだけ…。そして、残念ながら、現状、我々の手札は…」 アルト様は、言葉を切り、深く、それはもう深すぎるため息をついた。 「…『詰み』、にございます」
「詰みですって!? 宰相ともあろう者が、弱気な!」 「ですが陛下! 相手は『甘味=悪』と断じているのです! 我が国の最大の武器である王妃陛下のスイーツ外交が、初手から封じられた今、打つ手は…」
「ありますよ!」
その場にそぐわない、明るく能天気な声。 ディルフィアの硬いパン(これはこれで美味しい)をかじっていたフローラが、元気よく手を挙げた。 「でも、アルト様。あのスープ、本当にマズそうでしたよね! あたし、工房の床を拭いた雑巾の絞り汁かと思いましたもん!」 「フローラ工房長ッ!!」 アルト様の、もはや悲鳴に近い叱責が飛ぶ。 「今はそういう問題では! あなたまで陛下を煽ってどうするのですか! 私の胃はもう、限界なのです!」 「ちぇー。だって本当のことですもん」 フローラは、ぷうっと頬を膨らませる。
(…雑巾の絞り汁、ね) 私は、アレクの寝顔を見つめながら、静かに口を開いた。 「いいえ、陛下。アルト様。まだ手はありますわ」
「「?」」 レオニード陛下とアルト様が、驚いて私を見る。
私は立ち上がり、テーブルの上に、あの晩餐会で出された石のように硬い「黒パン」と、アストリアから持参していたディルフィア製の「海の恵みギュギュッとバー」を並べて置いた。
「レオニード様。彼らにとって『お菓子』は敵ですわ。それはもう分かりました」 「うむ…」 「ですが」 私は、指で黒パンをコンコンと叩いた。 「『兵士の士気を高めるための、合理的で、美味な戦略的栄養食』なら、いかがでしょう?」
「…戦略的、栄養食…ですと?」 アルト様の銀縁眼鏡が、キラリと光った。
私は、ギュギュッとバーを手に取った。 「これは、かつてアクアリアの船乗りたちのために開発したものです。栄養価が高く、保存が利き、そして何より…美味しい。彼らの黒パンは、栄養はあるかもしれませんが、兵士の心を癒し、士気を高める『美味しさ』が決定的に欠けています」 私は、ヴォルコフ将軍の顔を思い浮かべた。 「彼らは『強さ』を信奉している。ならば、私たちは『美味しさこそが強さの源である』と、彼らの土俵で証明するのです」
「なんと…!」 レオニード陛下の目が見開かれる。 「『菓子』ではなく、『レーション(軍用食)』として、あの筋肉ダルマの鼻を明かすというのか! さすがだぞ、マティルド!」
アルト様も、瞬時にマティルドの意図を理解し、宰相の顔に戻っていた。 「…なるほど。王妃陛下、それならば、明日の軍事演習の視察が最後のチャンスかもしれません。彼らが最も誇りとする『兵士』たちの前で、我々の『レーション』の優位性を示すことができれば…!」
その言葉に、待ってましたとばかりにフローラが飛び上がった。 「いいですね! いいですね! 名付けて『進軍(マーチング)・マッスル・ビスケット』! 最高のネーミングじゃないですか!?」 彼女は、窓の外の灰色の街を睨みつけた。 「よーし! あたし、この国の食材、片っ端から集めてきます! あの無愛想な街にも、きっと美味しい豆とかナッツが隠れてるはずですよ!」 「ま、待ちなさいフローラ工房長! 夜間の単独行動は許可できません! そもそも言葉は…!」 アルト様の制止も聞かず、フローラは嵐のように部屋を飛び出していった。
「…あ、嵐のようなお嬢さんだ…」 レオニード陛下が呆気に取られている。 アルト様は、天を仰ぎ、そっと新しい胃薬の瓶を取り出した。
「陛下。アルト様」 私は、二人に振り返り、にっこりと微笑んだ。その瞳には、もはや王妃でも母でもない、「聖女スイーツ令嬢」としての、静かで熱い炎が宿っていた。
「今夜は、厨房をお借りします。 スパルタリア連合の常識を覆す、アストリアとディルフィアの『本当の力』、存分にお見せいたしましょう」
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