第35話 王妃様のストライキと、国王陛下の(悲惨な)タルト

 アストリア王妃としての私の日常は、それはもう華やかで…と言いたいところだけれど、実際には外交文書の山と、貴族の夫人たちとの複雑怪奇なお茶会、そしてカサンドラ女官長による「王妃たるもの心得帳」の暗唱テストに追われる、なかなかにストレスフルなものだった。ディルフィアの工房で、自由に新作スイーツのアイデアを練っていた日々が、時折遠い夢のように感じられる。


 そんなある日のこと。

 事件のきっかけは、本当に些細なことだったのだ。レオニード国王陛下が、公務で疲れ切って戻ってきた私に、労いの言葉と共にこう言ったのだ。


「やあ、マティルド。今日の君の髪型は、なんだかディルフィアの丘で草を食む、もふもふの羊みたいで実に愛らしいね!」


 ………ひ、羊ですって!?

 確かに、最近お気に入りの侍女が結ってくれた編み込みヘアは、少々ボリューミーだったかもしれないけれど! それを、よりにもよって、もふもふの羊に例えるとは! しかも、なんだかディルフィアを田舎扱いするようなニュアンスも感じるじゃないの!


 私の堪忍袋の緒は、その瞬間、ディルフィア産小麦粉で作った極細パスタのように、ぷつりと切れた。


「もうっ! レオニード様のバカー! アホ毛ー! 私の気持ちなんて、これっぽっちも分かってくれないんだわ! こんな堅苦しくて、羊扱いされる王宮なんて、もう嫌! ディルフィアに帰ります! フローラと一緒に、新作の『さよならアストリア・涙のベリータルト』でも作って、ヤケ食いしてやるんだから!」


 私は、自分でも驚くほどの勢いでそう叫ぶと、子供のように泣きじゃくりながら自室に閉じこもってしまったのだ。ああ、我ながらなんて大人げない。でも、溜まりに溜まったストレスが、羊の一言で大爆発してしまったのだから仕方ない。


 ドアの外からは、レオニード陛下の、それはもう情けない声が聞こえてくる。

「マティルド! 待ってくれ、悪かった! 羊は撤回する! 断じて撤回する! ならば、アルパカだ! いや、そうじゃなくて! 私の言葉が悪かったんだ! どうか機嫌を直してくれー!」


 …陛下、アルパカも大概ひどいですわよ。


 その騒動を聞きつけたフローラが、私の部屋にこっそり忍び込んできた。

「あらあら、ついにやっちゃいましたね、陛下。マティルド様を本気で怒らせると、ディルフィアの火山性微小地震(年に一度くらい、工房の棚のクッキーがカタカタ揺れる程度のもの)より怖いんですよー。まあ、今回は陛下が100パーセント悪いですけどね! 羊って!」

 うん、フローラ、君は完全に私の味方でいてくれるのね。心強いわ。


 一方、アルト様は、国王夫妻の痴話喧嘩(国家機密レベルの非常事態)に、冷静沈着に(しかし、そのこめかみはピクピクと痙攣している)対処しようとしていた。

「…国王陛下。まずは王妃陛下のお気持ちが静まるのをお待ちになるのが、現時点での最も合理的な選択かと存じます。それと、そのアルパカという単語は、さらなる状況の悪化を招く可能性が極めて高いと予測されますので、以降の発言はお控えください。…ああ、私の胃が、まるでディルフィアの古い水車のように、ギリギリと音を立てて…」


 どうすればマティルドの機嫌が直るだろうか…。レオニード陛下は、自室でうんうんと頭を悩ませた末、一つの結論に達したらしい。

「そうだ! マティルドは、美味しいものを食べれば、大抵のことは許してくれるんだった! 私が、彼女との思い出の味、あの『リンゴとシナモンのタルト』を、心を込めて作ってプレゼントすれば、きっと…!」


 その思いつきは、純粋な愛情から生まれたものだったろう。しかし、彼が致命的に忘れていたことが一つ。それは、彼に料理の才能が皆無であるという、厳然たる事実だった。


 数時間後。王宮の厨房は、もはや戦場と化していた。

 レオニード国王陛下(エプロン姿だけは妙に似合っている)は、小麦粉を雪のようにまき散らし、卵は床に無残な黄色いシミを作り、リンゴはなぜか炭と化し、シナモンの瓶はひっくり返って厨房中がエキゾチックな香りに包まれ、そして肝心のタルト生地は、得体の知れない灰色の粘土細工へとその姿を変貌させていたのだ。


「うおおお! なぜだ! レシピ通りに、マティルドがいつも口ずさんでいた『愛のタルト・ステップ』でやっているはずなのに!」

「陛下! それは砂糖ではなく、アクアリアから献上された最高級の天然塩です!」

「オーブンから黒煙が! 誰か消火器をー!」


 厨房の料理人たちの悲鳴と、何かが爆発する小さな音、そして焦げ臭い匂いが、私の部屋まで漂ってきた。…さすがに、これは見過ごせないわね。


 私が呆れ顔で厨房に足を踏み入れると、そこには、小麦粉と卵と絶望にまみれたレオニード陛下が、まるで打ち捨てられた子犬のような目で私を見上げていた。

「…マティルド、ごめん。君を喜ばせようと思ったんだが…どうやら、僕にはお菓子作りの才能はなかったようだ…」


 そのあまりにも情けない姿に、私の怒りもどこかへスルスルと消えていってしまう。

「…もう、レオニード様ったら。タルトが可哀想ですわ。ほら、エプロンをお貸しなさい。お手伝いしますから」


 結局、私はレオニード陛下に手取り足取り(時には「そこは優しく混ぜるんです!」と、愛の鞭を入れつつ)タルト作りを教えることになった。二人で並んで生地を捏ね、リンゴを切り、カスタードクリームを混ぜる。その共同作業の中で、いつの間にか私たちの間のわだかまりも解け、素直な気持ちを伝え合うことができた。


「ごめんね、マティルド。僕の言い方が悪かった。君は、羊なんかじゃなく、僕にとって、ディルフィアの太陽よりも、アストリアの星々よりも、ずっとずっと輝いて見える、たった一人の大切な人だよ」

「レオニード様…。わたくしの方こそ、子供みたいに意地を張ってしまって、ごめんなさい」


 そして、焼きあがったのは、形は少し不格好で、ところどころ焦げているけれど、間違いなく愛情だけはたっぷりと詰まった、世界で一つだけのタルトだった。


 二人でそれを頬張る。

「…少し焦げていて、形もいびつですけれど…なんだか、今まで食べたどんなタルトよりも、美味しいですわ」

 私がそう言って微笑むと、レオニード陛下も「君と一緒に、心を込めて作ったからだよ」と、優しい笑顔で私の頬についたクリームをそっと拭ってくれた。そして、甘いタルトの香りに包まれて、私たちは仲直りの、それはそれは優しいキスを交わしたのだった。


 …その一部始終を、厨房のドアの隙間からこっそり覗き見していたフローラとアルト様(なぜか最近よく二人で行動している)が、「「青春だねぇ(ですねぇ)。これでアストリアの平和も、当分は安泰でしょう(ですな)」」と、しみじみと呟いていたとか、いないとか。


 私たちの初めての夫婦喧嘩は、思い出のタルトと共に、ちょっぴり焦げ臭くて、でも最高に甘く解決した。どうやらアストリア王宮における私の「ゆるふわスイーツ革命」は、家庭内平和の維持にも、大いに貢献するらしい。


 しかし、マティルド王妃の本当の戦い(主に、堅苦しい王宮の伝統と、時々暴走する旦那様との戦い)は、まだ始まったばかりなのである!

 そしてアルト様は、王宮厨房の被害状況をまとめた詳細な報告書と、今後の国王陛下による突発的厨房使用を禁ずる条例の草案作成に、静かに、しかし迅速に取り掛かるのだった。もちろん、お気に入りの胃薬(カモミール風味)を片手に。

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