第33話 秘密のお菓子教室と、女官長の甘い弱点?
ディルフィアからの使節団(という名の、フローラ工房長とそのお菓子バスケット)がアストリア王宮に滞在して数週間。彼女の持ち前の明るさと、美味しいディルフィアスイーツの力もあってか、王宮内の空気は以前よりもほんの少しだけ、和やかになったような気がしていた。…まあ、カサンドラ女官長の眉間の皺の深さと、アルト様の胃薬の消費量は、あまり変わっていないようだけれど。
そんなある日の午後、王宮の侍女たちの休憩室を通りかかった私は、思わず足を止めた。中から聞こえてくるのは、楽しそうな笑い声ではなく、力ないため息と、小さな愚痴ばかり。
「はぁ…またあの意地悪な伯爵夫人が、ドレスの刺繍のやり直しを命じてきたわ…」
「故郷のお母さんが焼いてくれた、甘いハチミツのパイが食べたいなぁ…」
「最近、なんだか笑うことも忘れちゃったみたい…」
その光景に、私の胸はチクリと痛んだ。華やかな王宮の裏側で、彼女たちは毎日たくさんの仕事に追われ、心休まる暇もないのだろう。美味しいものを食べて、少しでも笑顔になってほしい…。
(そうだわ! 王宮の片隅で、こっそり『秘密のお菓子教室』を開きましょう!)
私のその突拍子もない提案に、最初に目を輝かせたのは、もちろんフローラだった。
「面白そうじゃないですか、マティルド様! あたしも手伝いますよ! 堅苦しいアストリア王宮に、ディルフィアの自由なスイーツ魂を叩き込んでやりましょう!」
…フローラ、その言い方は若干物騒だけど、心意気は買うわ。
こうして、私たちの「王宮侍女さん元気回復!秘密のお菓子教室大作戦」は、ひっそりと始まった。場所は、王宮の奥深く、今はほとんど使われていない古い食品庫。埃っぽかったそこを、フローラと二人で大掃除し、持ち込んだ調理器具を並べれば、あっという間に私たちの「秘密のアトリエ」の完成だ。
夜、仕事を終えた侍女たちが、最初は「王妃陛下にそんな…滅相もございません…」と恐縮しきりだったものの、小麦粉とバターの甘い香りに誘われ、一人、また一人とアトリエに集まってきた。
「皆さん、難しく考えなくて大丈夫。お菓子作りは、楽しむことが一番大切ですわ」
私がにこやかに言うと、侍女たちは戸惑いながらも、生地を捏ね、型を抜き、オーブンから漂う香ばしい匂いに胸をときめかせる。
「わあ! 私でもクッキーが焼けた!」「見て見て、ハートの形よ!」「いい匂い~!」
最初は緊張でこわばっていた侍女たちの顔に、いつしか子供のような無邪気な笑顔が広がり、アトリエは甘い香りと、たくさんの笑い声で満たされるようになった。
フローラ先生の指導は、相変わらず「材料はだいたいこのくらい! あとは愛情をたーっぷり! 形が悪くたって、美味しければOK牧場ですよ!」という、超感覚的なものだったけれど、それがかえって侍女たちの緊張を解きほぐしたようだ。私はその隣で、「フローラ、その『だいたい』が一番難しいのよ。皆さん、卵はこうやって割ると殻が入りにくいですよ」と、基本的な技術を丁寧にフォローする。
侍女たちの作るお菓子は、形は不揃いで、時には少し焦げていたりもしたけれど、どれも心のこもった、世界で一つだけの優しい味がした。そして何より、彼女たちの表情が、日を追うごとに生き生きと輝き始めたのが、私にとって一番の喜びだった。
しかし、そんな私たちの秘密の活動も、長くは隠し通せない。王宮の規律と伝統を何よりも重んじる、あのカサンドラ女官長の鋭い目が、最近の侍女たちの変化を見逃すはずもなかったのだ。
「…近頃、侍女たちの間に妙な活気があるようですな。夜な夜な、どこからか甘い香りが漂ってくるという噂も耳にしましたが…王妃陛下、何かご存じでは?」
アルト様が、ある日私にそう告げた。彼の報告によれば、カサンドラ女官長は、最近侍女たちの表情が明るくなったことや、休憩室から時折クッキーの焼ける匂いがすることに不審を抱き、夜な夜な王宮内を巡回し、怪しい物音に聞き耳を立てているらしい。
「まずいわ! カサンドラ女官長にバレたら、お菓子教室は即刻禁止、侍女たちも処罰されてしまうかもしれない…!」
それからというもの、私たちのお菓子教室は、スリル満点の諜報活動と化すことになった。見張りを立て、物音を忍ばせ、カサンドラ女官長の巡回ルートを予測し、時には焼きかけのクッキーを慌ててスカートの中に隠したり(熱かった!)、小麦粉のついた手で壁に手形を残してしまったりと、ドタバタ劇の連続だ。
「きゃー! 女官長様がこっちに来ますー!」
「早くオーブンを消して! 証拠のクッキーは、洗濯物の山の下に!」
「フローラさん、口の周りにチョコレートがついてますわよ!」
そんなある夜、ついにカサンドラ女官長が、抜き打ち検査のように私たちのアトリエ(のすぐ近く)まで迫ってきた。間一髪、侍女たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、アトリエはもぬけの殻。…のはずだったが。
「…これは、何ですの?」
カサンドラ女官長が、鋭い目つきで床の一点を指差した。そこには、慌てて逃げる際に誰かが落としてしまったらしい、一枚のハート型のジンジャークッキーが、ぽつんと寂しげに転がっていたのだ。
「けしからん。このようなものを、王宮の床に無造作に落とすとは。…衛生観念がなっておりませんわね。仕方ありません、わたくしが特別に、処分しておきましょう」
そう言うと、カサンドラ女官長は、誰も見ていないことを(二度、三度と)確認してから、そのクッキーをそっとハンカチに包み、足早に自分の部屋へと戻っていった。
そして自室で、カサンドラ女官長は、誰にも見られないように、その素朴なハート型のクッキーを、ほんの小さな一口だけ、かじった。ピリリとした生姜の刺激と、黒糖の優しい甘さ。その瞬間、彼女の厳格な表情が、ほんの僅かに、本当にほんの僅かに、和らいだように見えた。そして、遠い昔、まだ少女だった頃に、厳格だった祖母がこっそり焼いてくれた、同じ味のクッキーの記憶が、ふと脳裏をよぎったような、そんな複雑な表情を浮かべたのだった。
「…まあ、悪くはありませんわね。むしろ、なかなか…」
秘密のお菓子教室のおかげで、王宮の侍女たちは見違えるように生き生きとし、彼女たちの作るささやかなお菓子は、王宮内の他の職員たちにも少しずつお裾分けされ、堅苦しかったアトモスフィアに、温かくて甘い変化をもたらし始めていた。
私は、お菓子が持つ、人を笑顔にし、心を繋ぐ不思議な力を、改めて実感する。
そして、カサンドラ女官長の厳格な仮面の下にも、もしかしたら甘いものが大好きな、可愛らしい一面が隠されているのかもしれない、なんて想像して、一人でくすりと笑ってしまうのだった。
私たちの小さな「スイーツ革命」は、今日も今日とて、カサンドラ女官長の鋭い(でも、最近少しだけ優しくなったような気もする)視線をかいくぐり、甘い香りとたくさんの笑顔と共に、アストリア王宮の片隅で、秘密裏に、しかし確実に進行中なのである。
アルト様はといえば、王宮内で最近、小麦粉とバターの消費量が不自然に増加しているという報告を受け、「…これは、国家予算の使途に関する、由々しき問題かもしれん…徹底的に調査せねば…(ただし、自分用の夜食クッキーはしっかり確保しつつ)」と、新たな頭痛の種(と、おやつの種)を見つけていたとか、いなかったとか。
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