第26話 水面下の攻防と、焼きリンゴに託す想い
あの衝撃的な「宰相号泣クッキー事件」から数日。アストリア王宮は、表面上はいつもの優雅な平静を取り戻したかのように見えた。けれど、その水面下では、私の処遇とレオニード殿下の婚約話を巡って、保守派と穏健派の熾烈な綱引きが繰り広げられているのを、私は肌で感じていた。
「ふぅ…いくら美味しいお菓子で人の心を動かせても、政治の壁は分厚くて、バタークリームみたいには溶けてくれないのねぇ…」
離宮の窓辺で、アストリアの美しい庭園を眺めながら、私は思わずため息をつく。レオニード殿下は、毎日のように私の元を訪れては「マティルド、君の潔白は私が必ず証明する! だから、心配しないでくれ!」と力強く言ってくれるのだけれど、その彼の眉間にも、隠しきれない苦悩の色が浮かんでいる。彼だって、王太子としての立場と、私への想いの間で板挟みになっているのだ。
そんな膠着状態の中、静かに、しかし確実に状況を動かそうとしている男がいた。そう、我らがアルト様である。
「マティルド様、ディルフィア本国の父君(侯爵閣下)より、アストリア国王陛下宛の親書が届きました。内容は、『両国の友好関係を鑑み、この度のマティルド嬢に関する不当な疑惑については遺憾の意を表すると共に、アストリア側がディルフィアとの経済協力協定(現在交渉中の、例のアカデミー卒業生の技術支援を含む大規模案件)の締結を真に望むのであれば、誠意ある対応を求める』という、極めて穏当かつ紳士的なものです」
アルト様は、涼しい顔でそう報告するが、その「穏当かつ紳士的」という言葉の裏に、「うちの可愛い(そして国の宝である)聖女様に何かあったら、経済制裁も辞さない覚悟ですよ?」という、ディルフィアの静かな怒りが透けて見えるのは、私だけではないだろう。さすがアルト様、外交カードの切り方がえげつない。
さらに彼は、アストリア国内の穏健派貴族――「あの強欲宰相、最近ちょっと調子に乗りすぎじゃないの?」と内心思っているであろう人々――に対し、「ディルフィアとの友好関係こそが、アストリアの国益と平和に繋がり、ひいては皆様の領地の安定にも貢献するのですよ?」という、甘い蜜のような情報(もちろん、宰相派の経済政策の矛盾点を指摘する詳細なデータ付き)を、そよそよと吹き込んでいるらしい。まさに、見えざる手。
一方、我が親友フローラはといえば、「マティルド様、こんな薄暗い離宮で悩んでたって始まりませんよ! あたし、ちょっと街へ出て、美味しいものでも探してきます! あ、もちろん、ついでに何か面白い情報でも拾ってこられたらラッキーくらいの感じで!」と、いつものように元気いっぱい、王宮を飛び出していった。彼女のその底抜けの明るさと行動力には、本当に頭が下がる。
そして数時間後、フローラは目をキラキラさせて(そして両手には大量の焼き菓子と果物を抱えて)帰ってきた。
「聞いてくださいマティルド様! 大スクープですよ! あのツンケンしてたイザベラ王女様、実は超のつく甘党で、特に故郷エルドラードの素朴な焼きリンゴには目が無いらしいんです! 王宮の厨房のメイドさんがこっそり教えてくれました! それから、もっとすごい噂も! あの宰相様、イザベラ様の実家のエルドラード王国と、なんか裏でこそこそヤバい約束をしてるっていう黒い噂が、市場の魚屋さん界隈でまことしやかに囁かれてました!」
…フローラ、君の情報収集ネットワーク、一体どうなってるの? 魚屋さん界隈って。
アルト様は、フローラの報告を冷静に(しかし、その目は「焼きリンゴ」という単語に明らかに反応して)聞いていた。
「…ふむ。宰相閣下とエルドラード王国間の黒い噂については、裏付けを慎重に進める必要がありますな。しかし、イザベラ王女の好物が焼きリンゴというのは、極めて有益な情報です。マティルド様、これを利用しない手はありませんぞ。食の好みは、時に人の心の最も柔らかな部分に触れる鍵となり得ますからな」
珍しくアルト様が食いついたわね(美味しいもの限定で)。でも、確かに。イザベラ王女…あの完璧な美貌とプライドの裏に、素朴な焼きリンゴを愛する心があるとしたら? そして、彼女もまた、政略結婚の駒として利用されているだけだとしたら…?
「よし、決めたわ!」私はポンと手を叩いた。「イザベラ王女に、心を込めた特製の『ディルフィア風・秘密のハニーグレイズ焼きリンゴ』を届けてみましょう。もしかしたら、何かお話しできるかもしれない。彼女の本当の気持ちを、知ることができるかもしれないわ」
かつてディルフィアで、手強い開発派の貴族たちを相手にした時も、最初の一歩は、私の作るお菓子だった。今回もきっと、何か突破口が見えるはずだ。
レオニード殿下は、私のその決意を聞き、少し心配そうな顔をしながらも、「君の作るお菓子には、人の心を動かす不思議な力があることを、僕は誰よりも知っている。君ならきっと…」と、私の手を強く握ってくれた。その温かさが、私の勇気を後押ししてくれる。
しかし、私たちの動きを、あの老獪な宰相が見逃すはずもなかった。アルト様の元には、宰相直筆の、それはもう丁重な言葉遣いで書かれた、「ディルフィアからの過度な内政干渉は、両国の友好関係に深刻な亀裂を生じさせかねませんので、賢明なるご判断を」という、ほとんど脅迫に近い牽制の書簡が届けられた。
「…どうやら、本格的に敵の虎の尾を踏んでしまったようですな。実に喜ばしい限りです(ただし、私の胃壁は限界まで悲鳴を上げておりますが)」
アルト様は、不敵な笑みを浮かべつつも、そっと懐から小さな金の小箱を取り出した。中には、先日ミスティリアの魔法薬局で見つけたという、「緊急時用・最高級王室御用達漢方胃腸薬(激マズだが効果はプラシーボ効果込みで絶大と噂)」が一粒、神々しく鎮座している。ついに、それに手を出す時が来たようだ。
ディルフィアからの外交的圧力と、フローラが掴んだ小さな、でも重要な手がかり。そして、私の新たな一手「焼きリンゴ外交」。この甘くて香ばしい作戦が、膠着したアストリア王宮の空気を変えることができるのか?
王宮の甘くない陰謀の中で、私の作るお菓子が、再び小さな奇跡を起こすかもしれない。…そして、アルト様の胃が、完全に崩壊する前に、何とか事態を収拾しなければ!
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