第13話 アカデミー開校!…と、前衛的すぎる卵たち
レオニード王太子殿下の(ある意味、お菓子への情熱だけは誰にも負けない)肝いりで、「アストリア王立製菓アカデミー」設立プロジェクトは、驚くべきスピードで…いや、どちらかというと、驚くべき珍道中として幕を開けたのだった。
まず、割り当てられたアカデミーの建設予定地。なんと、王宮の広大な庭園の、そのまた一番隅っこにある、何十年も使われていない物置同然の古い石造りの建物だった。聞けば、予算審議の際にオーギュスト卿派の貴族たちが「国家予算の無駄遣いは避けるべき。まずは既存施設の有効活用を」などと、もっともらしい意見を述べた結果らしい。…これって、遠回しな嫌がらせなのでは?
「ひ、ひどい…ここ、本当に使うんですか、マティルド様?」
蜘蛛の巣だらけの薄暗い建物を見上げ、フローラが顔を引きつらせている。その隣では、アルト様が眉間に深い谷を刻み、「…これは、徹底的な清掃と改修が必要ですね。追加予算の申請を…いや、まずは現状で最大限の効率化を…」とブツブツ呟きながら、既に頭の中で改修計画を練り始めている。さすが仕事の鬼。
結局、レオニード殿下が「これは未来のパティシエたちの聖地となる場所だ! 私もアカデミーの名誉総裁として、率先して汗を流そうではないか!」と、どこからか豪華な刺繍入りのモップ(明らかに実用的ではない)を持ち出して宣言したため、なぜか王太子殿下自らも参加する大掃除大会が開催される羽目になった。もちろん、殿下は早々に飽きて、つまみ食い用のクッキーを強請る係にジョブチェンジしていたけれど。
なんとか場所を確保し、私が徹夜で書き上げたカリキュラム案を手に、アストリアの菓子職人たちに協力を仰ぎに行ったのだが…。
「ふん、ディルフィアの小娘が考えたような浅薄な教えなど、アストリアの伝統には不要だ」
「我々はギルドのやり方で弟子を育ててきた。いまさら新しいことを学ぶ必要などない」
オーギュスト卿の息のかかった古参の職人たちは、けんもほろろ。まさかの講師ボイコット宣言である。前途多難とは、まさにこのことだわ。
それでも、レオニード殿下の(半ば強引な)鶴の一声と、アルト様の(胃薬を消費しながらの)粘り強い交渉、そして私が用意した「アストリア伝統菓子へのリスペクトを込めた新作試食会」という名の懐柔策(効果は抜群だった)により、なんとか数名の若手職人を講師として確保。生徒募集の運びとなった。
そして集まった、未来のパティシエの卵たち。それはもう、個性の大爆発だった。
目をキラキラさせて「聖女様のお菓子が学びたいです!」と純粋なやる気を見せる庶民の女の子。その隣には、「お菓子作りは、殿方のハートを掴むための淑女の嗜みですわよね?」と、泡立て器を扇子のように優雅に構える勘違い貴族令嬢。さらには、どう見てもお菓子作りより喧嘩の方が得意そうな強面の青年(「母ちゃんが無理やり…でも、甘いもんは嫌いじゃねえ」らしい)や、オーギュスト卿に「ディルフィアの技術を盗んでこい」とでも命じられたのか、常にメモ帳を片手に私を鋭く観察するスパイ疑惑の若手職人まで。…うん、これは面白くなりそうだわ(遠い目)。
記念すべき第一回目の実習。テーマは、基本中の基本「バタークッキー」。
「皆さん、まずは材料を丁寧に計量することから始めましょうね。お菓子作りは科学ですから」
私がにこやかに説明する傍らで、早速事件は起きていた。
「きゃあっ! 卵が爆発しましたわ!」(貴族令嬢、ボウルに卵を叩きつけすぎ)
「…マティルド先生、これ、黒いんですけど、食べられますか?」(強面青年、炭化した物体Xを差し出す)
「うおおお! 生地が! 生地が言うことを聞きません!」(やる気女子、格闘中)
教室内は、甘い香りよりも焦げ臭い匂いと、小麦粉の煙、そして生徒たちの悲鳴と笑い声(主にフローラの)でカオス状態。アルト様は、教室の隅で青い顔をして壁にもたれかかっている。がんばれ、アルト様の胃腸!
そんな騒々しいアカデミーの様子を、オーギュスト卿が時折「偶然通りかかった」風を装って、窓の外から冷ややかに眺めていた。そして、生徒がゴミ箱に捨てた失敗作のクッキーの欠片(炭化していない部分)を、誰も見ていないと思ったのか、こっそりハンカチに包んで持ち帰っていたのを、私は見逃さなかった。…ふふ、ツンデレなのかしら?
「このままでは、アカデミーが『アストリア王立びっくり菓子製造所』になってしまうわ…!」
危機感を覚えた私は、起死回生の策を講じることにした。アストリアの誇る特産品、「王家の金蜜(きんみつ)」と呼ばれる黄金色の稀少な蜂蜜と、王宮の庭園にひっそりと咲く「月光花(げっこうか)」という、夜にだけ芳しい香りを放つハーブを使った新作マドレーヌを開発したのだ。金蜜の濃厚な甘さと、月光花の清涼感あふれる香りが溶け合う、上品でどこか神秘的な味わい。
「皆さん、今日はこの『月光と蜂蜜のマドレーヌ』を一緒に作りましょう。レシピは、これです」
私が黒板にレシピを書き出すと、生徒たちはもちろん、非協力的だった若手職人たちも、その材料の組み合わせの意外性に興味を惹かれたようだ。
焼きあがったマドレーヌの、天にも昇るような芳醇な香りがアカデミー中に満ちていく。最初は半信半疑だった生徒たちも、一口食べるなり、その繊細かつ奥深い美味しさに目を丸くした。
「おいひい…! こんなマドレーヌ、初めてです!」
「蜂蜜とハーブが、こんなに合うなんて…!」
その時、またしても「偶然通りかかった」オーギュスト卿が、鼻をひくつかせながら教室の入り口に立っていた。生徒の一人が、焼きたてのマドレーヌを彼に差し出す。
「ギルド長も、いかがですか? マティルド先生の新作です!」
「…ふん。若輩者の作るものなど、たかが知れておるわ。…まあ、仕方ないから、味見くらいはしてやろう」
尊大な態度でマドレーヌを受け取り、小さな口で(意外と可愛い)かじるオーギュスト卿。そして……固まった。彫像のように微動だにしない。しばらくの沈黙の後、彼は絞り出すような声で、
「……まあ、悪くはない」
とだけ言い残し、足早に教室を去っていった。しかし、その背中が去り際に、もう一つ、ちゃっかりマドレーヌを懐に滑り込ませたのを、フローラと私はしっかりと確認済みである。
「ふふっ」
「やったね、マティルド様!」
生徒たちの顔には、達成感と自信の光が灯っていた。オーギュスト卿の(ほんの僅かだが確実な)態度の変化。アカデミーの未来は、まだ波乱万丈間違いなしだろうけれど、美味しいお菓子は、やっぱり最強の外交官なのだ。
その日の夕方、アカデミーの予算計画書と、薬局から取り寄せたばかりの大量の胃腸薬のリストを交互に見比べているアルト様の姿が、月明かりに照らされていたとか、いなかったとか。
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