第2話 魂のないものを巻けなかった日
時計を買おうとして、
並行輸入店に立ち止まった日があった。
それは夢の後、
ふと心が“重く”なった日だった。
フランク・ミュラーの時計を、
今度は自分のために──
そう思って、
何度も並行輸入のディスプレイを見て、
スペックを比べて、値段を眺めて、
「これでいいか」と言い聞かせるように、
店員さんを呼び止めようとした。
けれど、そのたびに何かが胸の奥で止まった。
ディスプレイ越しの時計にはたしかに、
美しいデザインのフランクミュラー時計があった。
しかし、そこには“気配”がなかった。
フランクミュラーのブティックで出会った、
奥さんに贈った、あの一本。
あの瞬間の空気。
フランク・ミュラー自身の思想と、
ニコラ・ルーダスCEOから直接時計の手渡し。
あれは「購入」ではなく、儀式だった。
私は、思い出したように言葉をこぼしていた。
「並行輸入品は、魂がない」
誰に聞かせるでもないその言葉は、
“どこで買うか”という選択の中に、
“どんな祈りと対話を身につけるか”という問いが含まれていることを理解した。
時計とは、ただの道具じゃない。
時間という“生”そのものを、腕に巻く行為。
だから私は、あの日以降、時計を買うことができなくなった。
買えなかったのではなく、
巻けなかった。
祈りのない時間を、腕に乗せることができなかった。
静かな夜、夢の記憶が戻ってきた。
クロノス神の言葉。
「時間のことを考えて、楽しんでね」と言ったあの声。
そうだ──
私は“自分の時間”を、魂で引き受けると決めたのだった。
ならば、
魂のないものを巻かないのは、当たり前だった。
あの日、私は立ち止まって正しかった。
祈りのない選択を拒んだその沈黙こそが、
時間の巡礼者としての、最初に意識し出した、きっかけであった。
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