神霊妖魔保護特区
秋谷イル
喰らいつく
――薄汚れたビルが立ち並ぶ街で、男はまだ崩れずに残っていた高層建築の壁面を駆け上がる。足の指でコンクリートを掴み、巨体を引き上げ、また次の一歩を踏み出す。
重力を無視して頂上まで登ると、そこで高く跳躍した。
そんな彼の進撃を阻もうと生臭い瘴気を含んだ風が吹き荒れる。砕けた無数のガラス片や瓦礫を巻き込んで渦を巻いたそれは皮膚や肉を深く切り裂く。
だが、構わず虚空に向かって手を伸ばした。その腕が半ばまで夜の闇の中へ飲み込まれた途端、彼の体はさらに天高く上昇し蛇行する異様な軌道を描いて虚空を昇って行く。
今度は紫色の雷が落ちて彼に直撃した。全身の皮膚が焼け焦げ、すぐにその下から新しい皮膚が姿を現す。
食い縛った歯の隙間から漏れたのは煙ではない。夜の闇よりなお黒い異様な呼気。
周囲では百鬼夜行の如く数多の妖が争い合っている。妖のみならず神や魔と呼ばれる者、精霊に属する者たちの姿もあった。
人間はいない。ここは人外の国。人ならざる者たちだけが集う都。
ゆえに彼も人ではない。似てはいるが、その頭頂には二本の角が生えている。それは双角族の鬼である証。
人外の都の争乱。その中心に彼の姿があり、そして彼が目指す天頂には地上の喧騒を笑いながら見物している龍が一匹いた。
青白い鱗と濁った白眼。先程から風に含まれている生臭い瘴気はその口から吐き出されている。
「!」
血を固めたような赤い蝙蝠の翼を持つ金髪赤眼の女が巧みに乱流の隙を潜り抜けて近付いて来た。雷に打たれ落下しかけていた青年は、その女の手を掴み、再び上昇を始める。
地上からは青い燐光が愛らしい声で叫んだ。
「いっけえええええっ!」
同時に落ちてくる無数の雷。女は魔術を用いてそれらを逸らし、弾きながら青年を龍の眼前まで運ぶ。
しかし次の瞬間、女は正面からの突風に煽られて強制的に高く高く舞い上げられた。そこに特大の雷が命中し跡形も無く消滅する。
一瞬、ニヤリと笑う龍。ところが今しがた消し去ったはずの男と女が共に別の方向から彼の懐に飛び込んで来て、驚愕に目を見開かされた。
『なっ!?』
「どこっ」
「あそこだ!」
青年の腕が再び虚空に沈む。巨体が異様な軌道を描いて瞬間的に龍の喉元に張り付いた。
なるほど、そこかと理解して追いかける女。
両者は共に凄まじい力を発揮して鱗を引き剥がしていく。それらは不自然に重なって集合し逆鱗を守る鎧となっていた。
龍は抵抗する。必死に空中で身をよじり、二人を振り落とそうとする。だが彼らは鱗と鱗の隙間に手を差し込み、やはり全力で抵抗する。
そしてついに一枚だけ逆さの鱗が現れた。
龍の逆鱗。彼らはそれに触られることを嫌い、触れればたちまち激しい怒りを買うと言う。
しかし、この龍が逆鱗への接触を嫌う理由は違う。
こいつは本物の龍ではないのだ。
青年はそれを知っていた。
「貴様は終わりだ!」
その逆鱗も強引に引き剥がす。
すると現れたのは空洞。
「なっ!?」
空洞の中を覗いて驚愕する女。青年はすでに攻撃体勢。
ところが、周囲から飛び出した無数の触手が先端を錐のように鋭くして彼と女を貫いた。
「ぐ、う……!」
「まずい……!」
この程度で自分たちは死にはしない――そんなことは敵も承知の上。頭上でまた雷雲が光を放ち、眼前では剥がした逆鱗が急速に再生を進めている。
最大の好機を逃し、一転して窮地に陥った。あと数秒で手を打たねば負ける。その敗北の先でどんな目に遭うかは想像したくもない。
女が敗北の予感に震えた時、青年は何故か自分の首を目一杯前に突き出していた。そして叫ぶ。
「やれ!」
「!」
意図を察した女は再び赤い蝙蝠の翼を生やす。そしてそれを細く鋭い死神の鎌に変え、青年の首に振り下ろした。
躊躇うことなく斬首。さらに斬り落とした瞬間に軽く弾いて龍に向かって首を飛ばす。
逆鱗の下に潜んでいた者は二人の予想外の行動に目を見張った。そんな彼を一回転した青年の首が睨みつける。
声は出ない。それでも怒りに満ちた眼差しが雄弁に語っている。復讐を成す時が来た。仇を討つ瞬間が訪れた。絶対に狙いを外しはしないと。
今度は貴様が喰われる番だ! 青年は大きく顎を開き、仇敵の首筋に喰らいついた。
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