第11話

 鏡の一件から数日経った、放課後の図書室。

 高い天井まで届く巨大な書架が迷宮のように並び、古い紙とインク、そして微かに防虫剤の樟脳(しょうのう)のような匂いが静かに漂っている。

 

 西日が大きなアーチ窓から差し込み、空気中の埃が光の筋の中で、まるで精霊のようにキラキラと舞っていた。

 普段なら、その静謐(せいひつ)さと午後の眠気で居眠りしてしまいそうな空間だが、今は張り詰めた、異様な緊張感が支配していた。


 俺たちの前に立つのは、図書委員の女子生徒だ。

 青ざめた顔で、不安そうに自分のこめかみを押さえている。

 

 彼女が言うには、数日前から図書室で特定の古い本を閲覧した生徒が、原因不明の部分的な記憶喪失を訴えているらしい。

 それは、まるで読んだ情報そのものが頭から消えていくような、奇妙な症状だという。


「原因は、おそらくアレね」


 澪が低い、確信に満ちた声で呟き、視線を向けたのは閲覧室の奥、通常は鍵がかけられているはずの貴重書庫のガラスケースだ。

 そこには古今東西の奇書や稀覯本(きこうぼん)が収められている。

 その中の一冊、特に古びて分厚い、黒い革装丁の洋書が、ひとりでにページをパラパラとめくっている。

 いや、違う。

 よく見ると、ページとページの隙間から、何か青白いものが無数に蠢(うごめ)いているのだ。


 俺たちは息を殺してガラスケースに近づく。

 マリアがどこからか取り出した細い金属棒で、慣れた手つきで鍵を開ける(本当にどこで覚えたんだ、その技術……聖十字教団はピッキングも教えるのか?)。

 ガラス扉を開けると、カサカサ、カサカサ……という、無数の小さな足が紙を擦るような、生理的な嫌悪感を催させる微かな音が耳についた。

 そして、微かにオゾン臭のような、電子的な匂いも。


 ケースの中にいたのは、体長数センチほどの、半透明で青白く発光する、多足類の蟲(むし)のようなものだった。

 だが、それは生物的な蟲ではない。

 体の表面には、まるでバグったデジタル表示のような、明滅する幾何学模様が浮かんでいる。

 無数のそれが、本のページを文字ごと喰い破るように這い出し、ガラスケースの内側を覆い尽くし始めていた。

 俺の「目」は、あの蟲が放つ異様なエネルギー――知識や情報を貪欲に喰らい、虚無へと変える飢餓感のようなもの――を捉えていた。

 あれが噂に聞く「本の蟲(ブックワーム)」か。

 だが、これはただの伝承上の存在ではない。

 「視る者」が情報を収集、あるいは破壊するために遣わした尖兵と考えるべきだろう。

 人間の知識や記憶を糧とする、デジタルとオカルトの融合体。


「今回はマリア、あなたの番よ」


 澪が隣に立つマリアに向き直る。

 その声には、この前の更衣室での借りを返す、とでも言いたげな挑戦的な響きが微かに混じっている気がした。


「あなたの力……いえ、私本来の力、言霊結界(ことだまけっかい)で浄化なさい。心を静め、無に。感情の波ではなく、静謐な祈りの力で」

「イ、イエス!  任せてくだサイ!  今度こそ、Coolに決めてみせマス!」


 マリアは元気よく返事すると、澪から受け取った和紙のお札――俺にはただの白い紙切れにしか見えないが、神城家に伝わる清浄な霊力が込められているらしい――を両手で恭(うやうや)しく構えた。

 金髪碧眼のシスターが、神道の呪具を構える姿は、何度見てもシュールだが、今の彼女にとってはこれが唯一の武器なのだ。


 マリアは深呼吸し、目を閉じる。

 金色の長い睫毛が微かに震えていた。

 彼女は必死に精神統一を試みている。

 澪の言葉を反芻するように。

 静謐、無、祈り……。


「Oh…… Calm down, Calm down…… Be water, my friend……? ノーノー…… Be still, and know that I am God……? うーん、これも違う気が……静かに、静かに……でも、あの蟲、キモチワルイ! 早くBang!と祓いたい! ダメダメ、集中、集中……!)」


 ぶつぶつと何か英語やラテン語、そして心の声が混じったような独り言を呟いている。

 どうやら、必死に「静けさ」をイメージしようとしているらしい。

 

 だが、普段から感情豊かで、喜怒哀楽が激しい彼女にとって、「心を無にする」というのは、燃え盛る炎を手で掴むような、至難の業のようだ。

 額には玉のような汗が浮かび、構えたお札を持つ指先が落ち着きなく動いている。


 お札は、ピクリとも反応しない。

 ただの白い紙切れのままだ。


 その間にも、ガラスケースの中の「本の蟲」は数を増やし、ついにはケースの隙間から数匹が這い出してきていた。

 青白い光の軌跡を描きながら、近くの本棚や壁を、カサカサと音を立てて登り始める。

 

 まずい、このままじゃ図書室全体に広がるぞ。

 被害者の生徒のように、俺たちの記憶も喰われかねない。


「マリア、集中して。雑念を払いなさい。呼吸を整えて」


 澪が静かに、だが有無を言わせぬ強い口調で促す。

 それは叱責というより、むしろ指導に近い響きがあった。


 彼女自身も、感情を力に変えるという未知の領域に足を踏み入れたばかり。

 だからこそ、マリアの苦闘が理解できるのかもしれない。


「わ、わかってマス! でも、落ち着こうとすると、昨日の晩御飯のスペシャル・ミートボール・スパゲッティとか、ミオの意外とかわいいペンギン柄のハンカチとか、色々考えちゃって……!」

「今はミートボールもペンギンも忘れなさい。ただ、一点を見つめて。呼吸に意識を向けるのよ」


 澪はそう言うと、マリアの背中にそっと手を当てた。

 驚くマリア。

 

「いい?  吸って……吐いて……。あなたの内なる静寂を感じて。力は、そこから湧き出るものだから」


 澪の声は、普段の厳しさとは違う、どこか穏やかで、導くような響きを持っていた。


(澪が……アドバイス? )


 俺は少し驚いた。

 この前の鏡の一件で、彼女の中で何かが変わり始めているのかもしれない。


「そうだぞ、マリア。お前はお前らしくやればいい。無理に澪みたいになろうとしなくていいんだ。お前のやり方で、静けさを見つければいい」

 

 俺も、できるだけ落ち着いた声で付け加える。

 根拠はない。

 だが、今はそう信じたかった。

 俺たちの繋がりは、互いの違いを否定するのではなく、受け入れることから始まるはずだ。


 俺たちの声に、マリアは顔を上げる。

 まだ不安げではあったが、さっきまでの錯乱状態からは少し持ち直したようだった。


 彼女はこくりと頷くと、ゆっくりと目を閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。

 そして、吐き出す息と共に、肩の力がふっと抜けていく。

 祈るように握りしめていたお札を持つ手が、わずかに緩む。


 マリアの祈りはいつも情熱的で、力強い。

 だが、澪の力――言霊結界は、それとは違う理(ことわり)で動くのかもしれない。

 

 激しさではなく、静けさ。

 熱量ではなく、純粋さ。

 あるいは、内なる神との、あるいは自分自身との、静かな対話。


 数瞬の静寂。

 カサカサという蟲の音だけが響く。


 やがて、マリアがすうっと目を開けた。

 その碧眼には、先程までの混乱は嘘のように消え、驚くほど澄み切った、静かな湖面のような、それでいて強い意志の光が宿っていた。


 彼女は構えたお札を、すっと前方へ突き出す。

 その動きには、もはや迷いはない。

 唇から紡がれた言葉は、普段の彼女からは想像もできないほど、静かで、けれど芯の通った、清らかな響きを持っていた。


「――穢(けが)れよ、本来の無(む)に還(かえ)れ。遍(あまね)く浄(きよ)き光となれ」


 言葉が空間に染み渡るのと同時。

 マリアの手の中のお札が、淡い、しかしどこまでも清浄な白い光を放ち始めた。


 それは、この前の澪が放った聖刻印の激しい閃光とは違う、穏やかで、けれど確かな浄化の力を持つ光。


 光は糸のように伸び、図書室の床と壁、天井に複雑な、しかし完璧な調和を持つ幾何学模様を描き出す。

 それは神社の注連縄(しめなわ)のようでもあり、教会のステンドグラスのようでもある、不思議な融合を見せていた。

 清らかな霊力で編まれた、東西の祈りが込められた結界だ。


 結界が完成した瞬間、壁や本棚を這い回っていた無数の「本の蟲」たちが、一斉に動きを止めた。

 そして、まるで陽光に晒された朝露のように、音もなく、青白い光の粒子となってサラサラと崩れ、清浄な光の中に溶けて消えていく。


 カサカサという不快な音は完全に止み、図書室には再び本来の静寂が戻ってきた。

 ただ、空気は以前よりも格段に澄み渡り、どこか神聖な気配さえ漂っている。


「…………できた。できた、デス……!」

 

 マリアは、まだ淡く光を放つお札を握りしめた自分の手を見つめ、呆然と呟いた。

 その顔には、疲労と、そして今まで知らなかった力に触れたことへの驚きと、確かな達成感が浮かんでいた。


 隣で見ていた澪が、ほんの僅か、口元に淡い、誇らしげな笑みを浮かべたように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

 二人の間にあった壁が、また一つ、音もなく崩れた瞬間だったのかもしれない。


 図書室には、先程までの喧騒が嘘のように静寂が戻っていた。

 マリアが作り出した言霊結界の清浄な霊力が、まだ微かに空間に漂い、心地よい安らぎを与えている気がする。

 床や壁を埋め尽くしていた青白い「本の蟲」たちは、跡形もなく消え去っていた。


「ふぅ……サンキュー、ミオ。アナタのアドバイス、マーベラスでした!」

 

 マリアは額の汗を拭い、やり遂げたという満足げな表情で澪にウィンクする。

 疲労の色は濃いが、その瞳は自信に満ちて輝いていた。

 

 澪は小さく頷くだけで、すぐに視線を「本の蟲」が発生した元凶である、あの黒い革装丁の古い洋書へと向けた。

 

「礼には及ばないわ。それより、この本を調べましょう。あの怪異が、ただ無差別に記憶を狙ったとは思えない。何か、重要な情報が隠されているはず」


 澪の指摘通り、その分厚い革装丁の本は異様だった。

 表紙にはタイトルもなく、ただ奇妙な一つ目の紋章のようなものが刻印されているだけ。


 ページは例の蟲に食われたように所々が欠け、焼け焦げたような跡も散見される。

 

 俺たちがページを注意深くめくっていくと、本文(それは未知の言語で書かれており、全く読めなかった)の余白に、インクか何かで走り書きされたような図形がいくつも描かれているのを見つけた。


 それは、精密な電子回路の設計図のようにも、古代の呪術的な魔法陣のようにも見えた。

 どちらともつかない、冒涜的な融合。

 オムニサイエンスと「視る者」の繋がりを示唆しているのか?


「この紋章……」


 澪が息を呑む。


「神城家の古文書にあった『隻眼の鬼』の印に酷似している……まさか、この本自体が、古(いにしえ)の封印の一部……?」


 さらにページを進めると、一枚の小さなメモ用紙が、まるで栞(しおり)のように挟まっているのをマリアが見つけた。

 古びて黄ばんだ、羊皮紙(ようひし)のようなざらついた手触りの紙片。

 そこには、震えるような、それでいてどこか切迫した、悲痛な筆跡で、いくつかの単語が日本語で記されていた。


「…………『視る者』は観測する……『門』を通じて……」

「……虚ろな『目』は器を求め……知識を喰らい……信仰さえも……」

「……御影の地に古き封印……教会と神社、対立の歴史……協力の記憶……」

「……『彼』は言った、孤独から救うと……でも、これは……違う……」

「……誰か、この『嘘』を……見抜いて……助けて……」


 俺はその文字を読み上げ、息を呑んだ。

 

 「視る者」「門」――旧校舎で未来が、あるいは未来を乗っ取った存在が口にした言葉と同じだ。

 「観測」「知識を喰らう」――まさに本の蟲の行動と一致する。

 「御影の地の封印」「教会と神社の対立……協力の記憶?」――この学校、この土地に纏わる不穏な噂とも繋がる。

 そして最後の、「孤独からの救済」「嘘」という言葉……。


 これは、未来の心の叫びなのか?


「『彼』って誰のことデスかね? 『視る者』のこと……? それとも……? 」


 マリアが顔を曇らせる。

 

「『嘘』……このメモを書いた人物は、『視る者』が約束した救済が、偽りであることに気づいていた……ということかしら。まるで、悪魔の契約のように。そして、協力の記憶とは……?」


 澪も難しい顔で腕を組む。

 

「じゃあ、あいつ……『本の蟲』は、このメモの情報を消すために現れたってことか?  それとも、このメモ自体が、誰かが俺たちに残したメッセージ……?」

 

 俺の問いに、二人は黙って頷いた。

 このメモを残したのは……?

 まさか、中野未来自身なのか?

 だとしたら、彼女はまだ、完全には……「視る者」に取り込まれたわけではない……?

 彼女の心の奥底では、まだ助けを求めている……?


 ◇

 

 夕暮れの空が茜色から深い藍色へと移り変わる頃、俺たちは部室に戻っていた。

 例の洋書とメモを机の上に広げ、改めて情報を整理する。

 

 窓の外からは、部活動を終えた生徒たちの賑やかな声が遠くに聞こえる。

 

 ついさっきまで得体の知れない怪異と対峙していたのが嘘のような、平和な日常の音。

 だが、その日常は、薄氷のように脆いものなのかもしれない。

 

「最新技術であるオムニサイエンスが、『視る者』とかいう古くからのオカルト存在の侵入経路になってる。奴らは人間の『観測』行為、あるいは信仰心のようなものに寄生し、知識や記憶を喰らう。そして、その現代における最大の『門』の役割を果たしているのが……中野未来」

「彼女が自ら望んで協力しているのか、それとも操られているだけなのか……このメモを見る限り、完全に望んでいるわけではなさそうデスね。むしろ、後悔している……?  誰かに、この『嘘』を見抜いてほしかった……助けてほしかった……?」


 マリアが深刻な顔で付け加える。


「もし、彼女にまだ自我が残っているなら……そして、このメモが彼女からのSOSだとしたら……私たちは、彼女を救い出す方法を見つけなければならない。たとえそれが、どれほど困難な道であろうとも。神城の名にかけて」

 

 澪の静かな、しかし強い決意を秘めた言葉が、重く響いた。

 旧校舎で見た未来の姿、そしてこの悲痛なメモ。

 あれが彼女からのSOSだとしたら、俺たちは応えなければならない。


 考えれば考えるほど、未来の意図が、そして「視る者」の真の目的が読めない。

 彼女は俺たちが知る中野未来なのか、それとも全く別の何かなのか。

 被害者なのか、加害者なのか。

 その境界線は、ひどく曖昧で、そして悲しい。


「……どちらにせよ、事態は思ったより深刻みたいだな」

 

 俺は窓の外の、すっかり暗くなった空を見つめた。

 街の灯りが、宝石のように瞬き始めている。


 あの日常の光景の裏側で、得体の知れない、古くからの敵が、俺たちの世界を、俺たちの記憶を、確実に侵食しようとしていた。

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