第37話 私と心先生と夜勤
深夜のナースステーション。
少しだけ眠けがすり寄って来る瞼を擦りながら、私は残務処理を進める。
今日も忙しかった。
カチカチと、無意味にボールペンを押す。
病室からの微かな機械音だけが響く院内に、私の音が混じる。
割と、この瞬間が好きだ。
慌ただしい院内が、この瞬間だけ私のものになったような気がして。
私だけのわがままを受け入れてくれるような気がして。
もちろん、大変なことも起きる。
けれど、何も起きないこの空間、この瞬間が、私にとっての日常の一つでもある。
「千夏。それ怖いぃ」
「ひん! せ、先生!?」
完全に自分の世界に入っていた私の耳に届く先生の声。
私は変な声をあげてしまった。
気が付けば、先生がナースステーションの入り口からこちらを恨めしそうに見ていた。
そう言えば、今日、先生が当直だった。
「廊下歩いてたら遠くからかちかちかちかち音がするんだもん。なんだか怖くて千夏に会いに行こうと思ったら、千夏が発信源だったなんて……」
すすすすすすすすと、足音を立てずにこちらに近づいてくる先生。
「す、すみません。癖でつい」
「怖い」
そのまま先生は私に抱き着いて来た。
先生は怖がりだ。
医師や看護師なら正直、そういう体験はあるし、そういう噂もいくらでも聞く。
慣れていいのかはわからないけれど、数年も経てば慣れてくる。
けれど、先生はどうにも慣れないらしい。
なので、たまに夜勤が被ると、こうして私に抱き着いてはその恐怖と戦う。
まあ、今回、恐怖の発信源が私だったというのが申し訳なさあるけど。
「先生、大丈夫ですよ」
私は胸に顔を埋める先生に優しく声をかける。
「こわいのはいやこわいのはいやこわいのはいや」
「先生?」
ぎゅりっと、私を抱きしめる先生の腕に力が入る。
痛い。
「コワイノハイヤコワイノハイヤコワイノハイヤコワイノハイヤコワイノハイヤコワイノハイヤコワイノハイヤコワイノハイヤハハハハハハハッハハハハハハッハハハハハハハハ」
「ちょ、先生! 先生!?」
異様な雰囲気の先生に、私の全身から冷や汗が噴き出してくる。
マズいマズいマズいマズい。
これはたぶんマズいやつ!
脳の奥から響く警戒音。
しかし、私は動くことができない。
すると、そんな私をさらに飲み込むように、徐々に胸に埋もれた先生の顔がこちらへと向き始める。
ああ、駄目だ。
「千夏ー。夜勤終わったら飲みに行こ―」
諦めに似た感情を抱き始めた私の元に届いたのは心先生の声。
瞬間、それまで私に引っ付いていた『先生』は消えてしまった。
「ねー、聞いてるーって、どしたの?」
先生はこちらを驚いた顔で見てくる。
「せ、先生ぃ。本物? 本物ですよね?」
私は先生に思い切り抱き着いた。
「あはは。本物の心だよ。って、苦しいよぉ」
「よかった……よかったです……」
「もう、千夏の方が大きいのになんか変な感じ」
笑いながら、先生は私を抱きしめ返してくれた。
暖かい。
そのまま私は数分間、先生を抱きしめ続けた。
おかげで、その後の夜勤も怖さがありながらも、先生の温もりで乗り切ることができた。
ちなみに、こういうことに察しのいい先生は、私に何があったかを聞いてこなかった。
君子危うきになんとやら。
ただ、先生がなんとか無理を言って夜勤の数を減らしたのを風の噂で聞いた。
ごめんなさい。
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