白狐の縁
坂倉蘭
白狐の縁
山々に囲まれた小さな集落は、春の柔らかな陽光に浴していた。
田畑が広がる平野部には古い民家が点在し、遠くの山から鳥の声が響く。
この地域には、宇迦之御魂神(ウカノミタマ)を祀る古い神社があり、代々神職を務める千狐がその管理を担っていた。
千狐は50代前半に差し掛かっていたが、かつては狐の眷属として神に仕え、人の姿を得てこの世に生きる存在だった。
彼の目は穏やかだが、どこか深い孤独を湛えていた。
千狐の人生は、神社と共にあるものだった。
神の使いとして人の子を成し、血脈を繋ぐのが彼の役目だったが、若い頃は人間との縁を避けていた。
恋愛は神の使命を曇らせると信じ、ただ神社を守り、村人たちの祈りを聞き届ける日々を送っていた。
しかし、40代前半に差し掛かったある春、彼の運命は変わった。
その日、千狐は神社の境内を掃除していた。
春の桜が散り、風が花びらを舞い上げる中、参拝者が一人、鳥居をくぐってきた。
若い女性だった。
長い黒髪をゆるく結び、淡い緑のワンピースを着ている。
彼女の手には小さな籠があり、中には野の花が詰められていた。
千狐は箒を手に立ち止まり、彼女を見た。
どこか儚げな雰囲気を持つ女性だったが、その瞳には強い意志が宿っていた。
「こんにちは。参拝に来ました」
彼女の声は静かだが、澄んでいた。千狐は軽く会釈し、言った。
「ようこそ。どうぞ、ごゆっくり」
女性は社殿に進み、丁寧にお参りをした。
千狐は遠くからその姿を見守っていたが、彼女が籠の花を供える姿に、なぜか心が揺れた。
参拝を終えた彼女は、千狐に微笑みかけた。
「この神社、素敵ですね。なんだか、懐かしい気がします」
「そうか。初めてかね?」
「はい。実は、最近この町に引っ越してきたんです。遥と言います」
遥と名乗った彼女は、千狐に軽く頭を下げた。
千狐は彼女の言葉に、微かな違和感を覚えた。懐かしいという言葉が、なぜか彼の胸に響いた。
その日から、遥は時折神社に現れるようになった。
彼女は町の小さな図書館で司書として働き、休日には野の花を摘んで神社に供えに来た。
千狐は最初、彼女をただの参拝者として扱っていたが、彼女の穏やかな笑顔と、どこか神秘的な雰囲気に惹かれ始めた。
遥は身体が弱く、時折咳き込むことがあったが、そのことを気にする様子はなかった。
ある夏の夕暮れ、遥が神社にやってきた。
彼女はいつものように花を供え、境内の石に腰掛けて本を読んでいた。
千狐は社殿の掃除を終え、彼女に声をかけた。
「毎度、熱心だな。何か特別な祈りでもあるのか?」
遥は本から目を上げ、微笑んだ。
「特別な願い……というより、ここに来ると心が落ち着くんです。子どもの頃、祖母から稲荷神の話をよく聞いてたからかな。白狐が縁を結ぶって」
千狐の心がざわついた。白狐——それは彼自身の本質だった。彼は遥の言葉を軽く受け流し、言った。
「縁か。まあ、狐は気まぐれだからな。当てにならんよ」
遥はくすりと笑い、言った。
「でも、気まぐれな縁も悪くないですよね。こうやって、千狐さんと話せてるのも、きっと何か意味があるのかも」
その言葉に、千狐は初めて彼女を真っ直ぐに見つめた。遥の瞳には、まるで彼の全てを見透かすような光があった。
秋が訪れる頃、千狐と遥の関係は少しずつ深まっていった。
遥は神社での時間を増やし、千狐も彼女との会話が日々の楽しみになった。
ある日、遥が神社で倒れた。
咳が止まらず、顔が青ざめていた。千狐は慌てて彼女を社務所に運び、水を飲ませた。
「無理するな。身体が弱いなら、休め」
遥は弱々しく笑い、言った。
「ごめんなさい。でも、ここに来ると元気になれる気がして……千狐さんがいるから、かな」
その言葉に、千狐の胸が締め付けられた。彼は遥の小さな手を握り、言った。
「なら、俺がそばにいる。無理はさせん」
その冬、千狐は遥に自分の正体を打ち明けた。雪が降る境内で、二人は並んでいた。
「遥、俺は人間じゃねえ。狐の眷属だ。ウカノミタマに仕え、人の姿で生きてる」
遥は驚くどころか、静かに頷いた。
「知ってた、みたいな気がします。千狐さんの周り、なんだか普通じゃない空気があって……でも、だから惹かれたのかも」
彼女の言葉に、千狐は初めて心を開いた。
「俺は人を愛しちゃいけねえと思ってた。神の使命を果たすだけだと。でも、お前にはそれが言えねえ」
遥は微笑み、千狐の手を握り返した。
「私も、千狐さんが好きです。神様でも、狐でも、関係ないよ」
二人は翌春、ひっそりと結婚した。
集落の人々は、千狐の晩婚を驚きつつも祝福した。
遥は身体の弱さを抱えながらも、千狐と神社で穏やかな日々を過ごした。
彼女は境内で花を育て、村の子どもたちに本を読み聞かせることもあった。
千狐はそんな遥を見て、初めて「人間として生きる」ことの意味を感じていた。
結婚から数年後、遥は妊娠した。
しかし、彼女の身体は弱く、妊娠は大きな負担となった。
千狐は毎日、彼女の健康を祈り、神に願った。ある夜、遥が言った。
「この子が生まれたら、珠世って名前にしたい。宝石みたいに輝いてほしいから」
千狐は頷き、彼女を抱きしめた。
「必ず守る。俺とお前で、な」
出産の日、遥は長い陣痛の末、女児を産んだ。
珠世と名付けられた赤ん坊は、小さく泣き声を上げた。
しかし、遥の身体は限界だった。彼女は千狐の手を握り、弱々しく微笑んだ。
「千狐さん、珠世を……よろしくね。私、幸せだったよ」
「遥、待て! 行くな!」
千狐の叫びも虚しく、遥は静かに息を引き取った。
千狐は遥の亡魂を抱きしめるように泣き崩れた。
境内には白狐の幻が現れ、静かに見守っていた。
それはウカノミタマの化身だったが、千狐にはそれが見えなかった。
千狐は珠世を一人で育て始めた。
遥の死は彼の心に深い傷を残したが、珠世の笑顔が彼を支えた。
珠世が5歳になった頃、千狐は彼女に初めて語った。
「お前は特別なんだよ、珠世。母さんの愛と、神の力が宿ってる」
幼い珠世は意味を理解せず、ただ笑った。千狐は遥の面影を珠世に見ながら、彼女との日々を胸に刻んだ。
神社には、遥が愛した野の花が今も咲いている。
千狐は時折、遥の籠を手に境内を歩き、彼女の笑顔を思い出す。
そして、珠世が成長する日を、遥の分まで見守ることを誓うのだった。
白狐の縁 坂倉蘭 @kagurazaka-rin
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