《銀の丘》5
夜が、静かに降りていた。
王妃アレシアの私室には、絹のカーテンがかすかな夜風にたゆたい、金細工の燭台が天井に淡い揺らぎを描いていた。
すでに侍女たちは退き、残されたのは絹の帳のような沈黙。時の流れすら、遠く緩やかに感じられた。
アレシアは書きかけの手記に筆を置き、静かに硯を閉じる。
視線の先、格子窓の向こうには王城の庭が広がり、満ちゆく月光が咲き残る夜花にやわらかな銀の彩りを施していた。
「……あの子の声に、もう、あんなにも確かな力が宿っていたのね」
独り言のように零された言葉は、部屋の空気に溶けていく。
耳の奥にはまだ残響が残っていた――本日の会議で、息子セイルが発した言葉。
「私もまた、共にその封印の中へ入るべきだ」
それは、紛れもなく“王”の声だった。
けれど同時に、深く人間的な優しさと、燃えるような決意があった。
それが、母としての心に重く刻まれていた。
若き日のアレシアは、妾腹として王の子を授かり、ひとりでその命を育てた。
セイルは王家の血を受け継ぎながらも、正妃の子ではない。
彼が受けてきた蔑視と陰口、冷たい視線のひとつひとつを、母はすべて覚えている。
――だからこそ、私は「正統」の重みを守らねばならなかった。
「私は、王妃……。
民が平穏を願う限り、その恐れと混乱を鎮める“象徴”であり続けねばならないのよ」
リィゼ・クラウス。
その少女が持つ魔の力はあまりにも強すぎた。
希望をもたらす一方で、それは災厄の種でもある。
人々が理解するには早すぎる、未来の姿を孕んでいた。
母の目には、それがはっきりと見えていた。
――あの戦場から彼女が還ってきて以来、ずっと。
「私はセイルを“賢王”にしなければならない……
たとえそのために、母として最後の剣を振るうことになろうとも」
その呟きは祈りではなかった。誓いですらない。
それは、“王妃”という存在に与えられた、凍てつくような義務。
静かに、確実に彼女の心を蝕んでいく、選ばれし者だけの孤独だった。
「……すべてを赦し、すべてを受け入れるには、この国はまだ、あまりにも幼いのよ、セイル」
ふと、空が翳る。
雲に覆われた月が、部屋の光を静かに奪い、アレシアの影もまた床に滲んでいく。
影は、彼女の胸の内に宿る迷いとよく似ていた――静かで、抗い難く、どこまでも深い。
彼女の中にあるもの――それは確かに愛だった。
だがその愛は、「国」という巨大な存在の前で、何かを切り捨てることでしか保たれなかった。
それが、王妃アレシアという名の女が、王国の象徴として背負い続ける“正しさ”の、果てしなき形であった。
「……コン、コン、コン」
静謐を破るように、小さなノックの音が響く。
だがアレシアは、訪れる気配をすでに感じ取っていた。
「……お入りなさい」
重々しく軋む扉が開き、セイルが姿を現す。
漆黒の礼服は戦塵を払いきれず、若き顔には疲労と、それ以上に強い意志の影が刻まれていた。
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