《銀の丘》1



 封印から目覚めた夜。

 風は柔らかく、城の高台に流れていた。

 星々のまたたくバルコニーに、リィゼはいた。


「夜の空は、静かね……。」


 独り言は、あまりに静かで、風の中に消えてしまいそうだった。

 彼女はただ、星のように遠く、届かぬものに思いをはせていた。。




 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇





 翌朝――王宮の空は、まだ夜と朝の境にあった。

 灰色に染まる空に、薄い朝靄が流れている。

 城の回廊は静まり返り、遠く鐘楼の音が時を告げていた。


 その朝、王宮の正門前に、ひとりの影が佇んでいた。

 漆黒の外套に身を包み、長い黒髪を背に垂らしたその姿は、まるで夜そのものが人の形をとったかのようだった。



「……どこへ行かれるおつもりですか」

 背後から、低く年老いた声がかけられた。


 振り向かずとも、それが老臣ファルクスであるとリィゼにはわかった。

 彼女は立ち止まったまま、小さく息をついた。


「お墓参りよ。丘の上にあるあの場所へ、昨日のお礼を伝えに行くの」

 淡々とした口調でありながら、その声音にはひとしずくの柔らかさが宿っていた。


 ファルクスは沈黙した。

 彼の眉間には、深い皺が寄せられている。

 彼はリィゼを見つめながら、言葉を選ぶように口を開いた。


「……この国は、まだあなたの存在をどう扱うか決めかねております。

 あなたのような力を、再び表に出すことに、恐怖と疑念の声が高まっている。

 せめて、この城を離れぬでいただきたかった」


 リィゼは微かに笑った。

 だがそれは喜びの笑みではない。

 どこか諦めにも似た、静かな嘲笑だった。


「昼には戻るわ。その間に、私をどうするか――存分に話し合っていればいい」


 それだけを言い残し、彼女は背を向けた。

 朝靄の中を、すっと歩き出す。

 その歩みは軽やかで、しかし、後戻りしない強さに満ちていた。


 兵士たちはその姿を見送るだけで、誰ひとり声をかけなかった。

 まるでその姿が、この世ならぬもののように。


 ***


 王都の北端――

 市門を越えると、風景はゆるやかに開けていく。

 朝の街道はまだ人影もまばらで、石畳には夜露が宿っていた。

 早起きの商人たちが馬車の荷を積み、祈祷師が路傍に香を焚いている。


 かつて幻兵たちとともに通ったこの道は、戦へと続く“死の路”であった。

 今は平穏な朝に包まれているが、地の奥にはまだ血と祈りの記憶が沈んでいる。


 道端に立つ老婆が、彼女に目を留めた。

 その眼差しには、驚きと、かすかな畏れが混ざっていた。

 リィゼは会釈するでもなく、ただ黙って通り過ぎる。

 老女は何かを言いかけたが、その唇は震えるばかりで、言葉にはならなかった。


 やがて、街の喧騒が背後に遠ざかる。

 道は緩やかな上り坂となり、丘へと続いていた。


 彼女は外套の前を留め直した。

 冷たい風が、胸元に入り込んでくる。


 丘は、まるで雲海の上に浮かんでいるかのようだった。

 朝霧が辺りを覆い、花々がその白さの中でわずかに色を滲ませていた。

 季節外れの銀の花が、静かに咲き誇っている。

 それはまるで、戦の夜に散った魂が、形を変えて息づいているようだった。


 リィゼは一歩一歩、足を踏みしめる。

 その歩幅は決して急ぐでもなく、ためらうでもなかった。

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