《風は目覚める》8
戦いは終わり、王国は勝利を手にした。
久方ぶりの勝利、久方ぶりの安堵。
「……あれが、魔女……」
誰かが呟いた。
その声に、周囲の人々は一歩、無意識に下がった。
誰も彼女の名を呼ばなかった。
今、広場に集った群衆の瞳はどれも凍りついたように揺れていた。
「魔女……だよな。あれが……」
そのささやきは、まるで冷たい雨のように、周囲の心に波紋を広げていく。
大声で非難する者はいない。だが、誰もが沈黙の中に怯えを抱えていた。
あの戦場を、遠くの丘から目にした。
剣を振るい、血に染まり、それでもなお立ち上がる“死者の軍勢”。
声も表情も持たず、ただ命令通りに敵を切り伏せていく影たち。
そして、その軍勢を率いていた黒衣の女――リィゼ・クラウス。
彼女が歩くたび、広場には空白が生まれた。
民衆はわずかに身を引き、まるで目を合わせれば自分の影さえ奪われるかのように、視線を逸らす。
「おかしいよ……勝ったんだろ?」
ひとりの子どもが、母親の手を引いて問うた。
だが母親はその手を強く握り、何も答えぬまま、背を向けた。
「このままでいいのか……あんな存在が、街の中に……」
そんな言葉が、いつしか囁きから“声”へと変わっていく。
それは祈りではなかった。願いでもなかった。
恐怖が、じわじわと“正義”という名に形を変えていく瞬間だった。
誰かが言い出す。
「また暴れたらどうする?」
「次は、我らが敵になるかもしれん……」
祝福の鐘の音は遠く、虚ろに響いていた。
彼女はただ、無言の祝福と無数の沈黙の視線を浴びながら、王城の前を通り過ぎてゆく。
人の姿を持ちながら、感情を持たぬ兵たち。
剣を振るい、傷ついてもなお立ち上がる幻の軍勢。
それは人の限界を超えた力だった。
王都の広場に入るころには、リィゼの周囲には、完全な空白地帯が生まれていた。
道の両脇に集った人々は、ひとりとして手を差し出さなかった。
セイルはその様子をバルコニーから眺めていた。
「彼女が救ったのに。彼女が……この国を救ったのだ……。」
「人の心は、理では動かぬ。まして、魔を見たと信じた者の心など……なおさらです」
老臣・イゼールは、窓の外に続く喧騒を背にしながら、静かに言葉を紡いだ。
セイルは立ち尽くしていた。
リィゼが広場を通り、無数の視線を背にしたまま歩んでいく姿を、ただ見つめていた。
「たった一人で、戦況を覆した」
「はい。事実です。ですが、陛下――人は『正しさ』に従うよりも『安心』にすがるのです」
イゼールは目を伏せ、老いた手で懐から一通の文を差し出した。
「早くも、民の一部から届いております。魔女の再封印を願う声。中には、嘆願ではなく、命令のような文面すらございます」
「まだ戦は終わったばかりだ。彼女がいなければ今頃我々は……」
「それでもです。彼らは“見た”のです。彼女の力が、死を操るものだと。感情を持たぬ兵が、敵軍を薙ぎ払う光景を」
老臣の声は、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ、淡々とした現実の音だった。
「力は、民にとって祝福ではありません。それは、常に“剣”です。握る者を間違えれば、自分の喉元に降りてくる。……民は、そう信じております」
セイルは拳を握った。
「再封印しない術などあるのか? あれほどの力を持つ者を恐れず、信じる術など……」
イゼールはゆっくりと顔を上げた。
「陛下ご自身が“盾”となること彼女が誰よりも、この国の未来に尽くす者であると。その声を、繰り返し、繰り返し、繰り返していくしかありません」
セイルは、眉を寄せたまま頷いた。
それが、どれほど困難な道かを理解した上で。
「――言葉とは、かくも頼りなく、かくも尊いものだな……」
「はい。魔法にも勝る、唯一の祈りでございます」
老臣は、王の背を見送った。
セイルは唇をかみしめた。
人々の視線に、感謝の影はほとんどなかった。
畏怖と猜疑と、そしてわずかな軽蔑。
――まるで、英雄ではなく「災厄」を見つめるかのように。
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