《風は目覚める》3

 城壁の外


 リィゼは静かに目を閉じ、唇を震わせるように、詠唱を始めた。


 ≪眠れぬ魂よ 風のなかに目を開けよ

 名もなく斃れし者たちよ 今ここに還れ

 血に濡れた約束は なお地に刻まれ

 剣の影は いまも空を裂いている

 聞け 遠き日の咆哮を

 忘却の彼方に沈んだ 誓いの名を

 ――我が声を旗として

 この手を契りとして

 死せる者よ、幻の兵となりて甦れ

 その刃を、ただひととき

 愛したるこの国のために振るえ

 起きなさい 誰かの英雄たち≫


 詠唱が紡がれるごとに、リィゼの足元に淡い光が集まり、静かに地を這いながら広がっていった。魔力の波紋はまるで眠れる記憶を撫でるように、大地の奥底へと浸透してゆく。


 詠唱が終わった刹那、世界は音を失った。

 時が止まったかのように。


 空気が凍りつき、彼女のまとう黒の魔力がゆるやかに脈動を始める。

 刻まれた魔法陣が蒼白の輝きを放ち、大地に光を描いてゆく。


 それは王都の外縁へ、戦の荒野を這うようにして、静かに、けれど確かに広がっていった。


 風が逆巻き、空間が軋む。


 次の瞬間――


 大地が、嗚咽した。


 埋もれた魂が、光の粒となって空に浮かび上がる。

 それは、墓標さえ持たぬ名もなき死者たちの慟哭。

 時を越えて呼び起こされた彼らの想いが、リィゼの魔力に応え、輪郭を持ちはじめる。


 やがてそれは、影と鎧の群像へと姿を変える。


 朽ちた剣を掲げる者。

 誓いの盾を最後まで離さなかった者。

 名を持たぬまま、この国を愛し、守り、散った者たち――


 彼らは皆、かつて王国のために戦った“幻の兵”たち。

 その胸に灯るのは、死を越えてなお残された誇りと忠義。


 空に響く、幻の軍旗が翻る音。

 光の衣をまとう彼らは整然と隊列を成し、静かに待機した。


 その眼差しに生はない。けれど、その背に宿るものは確かだった。


 ――滅びを超えて甦った、《魂の軍》。


 リィゼは彼らを見つめ、そっと囁いた。


「あなたたちは、まだ終わっていない。 あなたたちが守ったこの国を、今度は私が守る。 ……ともに、終焉を拒もう」


 その言葉に応じるように、幻兵たちの胸元が一斉に淡く輝いた。


 それは、心臓の代わりに宿された“祈り”の光――

 もう一度、立ち上がるための力。


 空はなお曇り、風は冷たい。


 けれどその姿は、まるで夜明けを告げる使者のようだった。

 王国の兵士たちの間にも、戸惑いと、そして希望の火が揺れ始めていた。


 ひとりの幻兵――その身に威容をまとった者が、音もなく膝をつき、リィゼの手をとって頭を垂れる。


 リィゼは静かに命じた。


「行け。風となって、炎を払え。王の願いに応えよ」


 その瞬間、幻兵たちは一斉に動き出した。


 土を蹴り、風を裂き、無言のまま戦場を駆ける。


 叫びも咆哮もなく、ただ一つの目的だけを胸に

 王都を、守るために。


 リィゼはひとつ深く息を吸い、ゆっくりと天を仰いだ。

 そして、セイルへと静かに視線を向ける。


「……これが、魔女の力の一端よ」


 その横顔を、王セイルは黙したまま見つめていた。


 黒き魔女は再び立ち上がった。


 戦を終わらせる者として。 あるいは、災厄の再来として。


 けれど確かなのは、彼女が王の祈りに、応えたということだった。

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