黒き幻影の魔女
灯野 凪
プロローグ
王国セリヴァの広大な大地は、一見、静寂に包まれていた。
だがその沈黙の奥には、命の息吹すら凍らせる冷たい風が忍び寄っていた。
南方の荒野より迫り来るは、敵国フォリスの大軍。
その進軍の速さは予測を遥かに超え、城壁を越えるのも時間の問題だった。
敵の動きは、一糸乱れぬ。まるでひとつの巨大な生き物が、躊躇なく獲物に迫るかのようだった。
風が、止んだ。
王都セリヴァ。
かつて栄華を誇った王都は、今や灯の消えかけた燭台のように、か細く、儚い。
届く報告は日を追うごとに惨状を増し、国境はすでに崩壊。
エレンの谷は敵に奪われ、三つの砦は沈黙を守ったまま。
各地の警備隊も撤退すら叶わず、無言のまま、戦火に呑まれていった。
戦慄と焦燥が渦巻くなか、王城の会議室には重苦しい沈黙が降りていた。
「……このままでは、王都すら守れますまい。陛下、早急なご決断を」
老将ガルナの低く絞られた声が、場に重く響いた。
誰もが顔を曇らせ、言葉を失う。
「――魔女の封印を解くしかあるまい」
若き王、セイル・セリヴァが、低く呟いた。
そのひとことが、場の空気を一変させた。
「……なりませぬ!」
席を蹴る音が鳴り響く。
立ち上がったのは、貴族院筆頭・カゼル公爵だった。
「魔女リィゼは、かの災厄の申し子。あの大戦を灰に変えたのは、まぎれもなく彼女。
陛下が彼女を解き放てば、王家そのものが破滅いたしますぞ!」
「破滅しているのは、いまこの国そのものだ」
セイルが静かに言い放った。
その瞳には、夜を裂くような確かな炎が宿っていた。
「もはや、我らの手で守れるものなどほとんど残っていない。だが――彼女であれば、まだ希望はある」
「希望? 陛下、彼女は人にあらず。忌むべき存在。忘れ去られ、永久に眠るべき者なのです!」
カゼル公が声を荒げると、数人の貴族が立ち上がり、剣の柄に手をかけた。
「この場で封印を解くとあらば、我らは反逆も辞さぬ!」
「魔女が我らの言葉に耳を貸すとは限らぬ!」
その場が一気に緊迫する中、セイルの声が再び空気を凍らせた。
「今こそ、王国を守るために、全てを賭ける時だ」
静寂。
剣に添えられた手が、かすかに震えている。
「……封印を解く」
その言葉が、重く静かに落とされた時、もはや誰一人、反論の声を上げなかった。
その夜、王国の運命を大きく変える決断が下された。
封じられていた魔女――黒き幻影、リィゼ・クラウス。
彼女の眠りが、今、解かれる。
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