第24話 紅い目
血の匂いがする。とても濃い。
でも、俺じゃない。だって、どこも痛くない。
あれほど痛んだ腕がちっとも痛くない。
なぜだろう?
身体に衝撃を受けて目が覚めた。どこかに投げ出されたような感覚。でも、自分が寝ていたのは寝台だったはず。
それがどうして。
ムッとした強い湿気と土の匂い。それから──。
「アスール…」
頬に濡れた手が触れる。目を開くと、紅い目をしたシアンが顔を歪ませ泣いていた。苦しげに眉間にシワを寄せている。
「シアン…様?」
「ごめん…。もう、僕には──君を生かす力がない…。やっぱり──僕には、生きる資格がなかった…」
「なに、を──」
周囲には樹木が重なり深い森の中だと知れた。シアンの口からは血がこぼれている。頬が濡れたのは、涙のせいばかりでないと気づく。
「いったい、何が…」
「君と、二人で生きたかった…。せめて、君を生かしたいのに──その、力が──」
気が付けば、シアンが必死に手をアスールの胸元にかざし、何かを施そうとしていた。
だが、そこからは何も起こらない。荒い呼吸。見ればシアンの胸元も赤く染まっていた。
「もう、いい…、いいんです…! どこかで身体を休めて──」
と、周囲から複数の足音と怒声が聞こえた。
「こっちだ! 血の跡を追え!」
アスールは間近で聞こえたそれに、はっとシアンを見返す。
「追われて──いるんですか? 兵に?」
シアンは頷いた。
「君を連れて逃げ出そうとした。けれど見つかって…。変化しなかったから、攻撃はできない。逃げるしかなかった…」
「俺なんて置いて行ってください…! ここから、早く──」
言いかけて酷く咳き込んだ。口を押えた右腕が動くことに気づく。
「腕が…?」
「それしか、できなかった…。アスール、君をこんな目にあわせて済まない。君は何も悪くないのに…。父も母も、兄弟も…。誰もかれも、悪くはなかった。なのに、僕は…」
「もう、いいんです…っ、とにかく、ここから離れて──」
「いたぞ! 捕まえろ!」
見つけた兵士がこちらに駆けてくる。シアンはそのまま逃げずに、アスールを再び腕に抱き上げた。
「シアン! 俺は置いて行ってください! 逃げて!」
「だめだ…。なんとか、君だけでも…」
そう言って、跳躍しかけた所に、背後から矢が飛んだ。鋭い切っ先が左の肩を突く。
どっと溢れた血がアスールの顔に飛んだ。しかし、シアンは蹲ったがアスールを離さない。
「シアン!」
「大丈夫だ…」
そう言うと、歯を食いしばり飛んだ。兵士の声がそれを追う。
シアンはそのまま、木々の間を縫うように奥へ奥へと飛んだ。
太い枝や岩を足掛かりに跳躍する。人のそれではないが、やはり獣の姿をとらないせいで、思う様にはいかないようだった。
それでもようやく、岩場の奥、シダの垂れさがった洞窟へとたどり着いた。そこには人のいた気配がある。
「ここは…?」
「僕の棲みかの一つだ…。他の獣や魔獣は現れない…。ここで、癒す…」
「待って下さい! 俺より、シアン様が先です。傷の手当てを──」
肩には矢が刺さったままだ。
「僕はもういい。もう少し、落ち着けば力が戻る…。それを待って、君を癒す。もとはといえば、すべて僕が原因なんだ。させてくれ」
「でも、そうしたらシアン様が…!」
シアンは笑う。いつかの様に優しい笑みだ。
「仕方ない。やってきたことのつけだ。こうなって当然。…君と生きる未来を夢見れたことでもよしとしなければ」
「シアン様!」
シアンはアスールの頬にもう一度触れると。
「君は──生きてくれ」
そう言った後、急にシアンが苦し気に表情をゆがめた。苦しそうに胸元を掴む。
「シアン様?」
「だ、だめだ──! 出て、来ないでくれ…!」
アスールはそれではっとなる。
「シアン様、だめです! そいつの声に耳を貸してはいけない! 立ち向かって──」
肩を掴んでゆするが、シアンは苦痛に顔をゆがめたまま、身動きしなくなる。
と、不意にシアンの身体の力がぬけ、胸元を掴んでいた手が滑り落ちた。そうして、ゆっくりと顔を上げる。
紅い瞳がアスールを見た。
「やあ。久ぶりだな、アスール。前の続きをしようか? 二人で楽しもう…」
くっくと、紅い目をした魔物が笑った。
「──っ」
その口が裂け、指の爪が伸びる。魔獣になろうとしていた。アスールは後退るが、身体の自由がきかない。
「その後、お前を喰らう──」
「──させるかっ!」
背後から声がかかった。
振り向こうとしたシアンの背に、剣が突き立てられる。あまりに早く、魔物に変化しようとしたシアンは対処できない。
うぐっと、小さなうめき声をあげ、どっとアスールの側に倒れこむ。
あ…。
「シアン、さま…」
「ふ…、間の、悪い…」
にっと笑んだ口もとのまま、シアンはガクリと頭を垂れた。
その向こうにカリマが見える。シアンの身体から引き抜いた剣には、血のりがついた。
「──すまない、アスール。生かして捕らえたかったが…」
「……いい。分かって、いる…」
アスールは力の抜けたシアンを抱きしめる。
どうして、こんな無理をしたのか。
最後は必死にアスールを生かそうとした。
自分の為もあったはず。
けれど、それ以上に、その先の未来を夢見ていたのだろう。幼い頃からずっと夢見ていた、ごく普通の人々の生活を。
シアンはただ普通に生きたかっただけなのだ。
シアン、様…。
その金糸を緩く撫でた所で、急に心臓のあたりが掴まれた様に痛んだ。ひゅっと息を吸った後が続かない。
「っ──!」
「…アスール?」
息が出来ない。
吐くことも、吸うことも。
そのまま、必死の形相で駆け寄るカリマを目に──意識を失った。
──カリマ。
✢✢✢
「アスール!」
カリマは駆け寄って、アスールを抱き起す。
シアンを抱く腕は力なく解かれ、血だらけの身体は土の上に落ちた。
アスールのどこもかしこも血に染まっていたが、それはアスールのものでは無いことは分かっている。ルベル達も、アスールを何とか巻き込まないよう、シアンだけを狙っていたのだ。
アスールの唇の色はすでに紫色に変化している。急いで横たえ、心臓の上に手を置き、圧迫を繰り返すが反応がない。
と、横合いから微かな笑い声が聞こえた。
「もう、そいつも、だめだ…。俺には分かる…。バカだなぁ…。こいつにやらせれば良かったのに…。そいつもじきに死ぬ」
「嘘だ! 貴様こそいますぐ終わらせてやる──」
手にした剣をもう一度、横たわったシアンの身体に突き立てようとしたが、
「受け入れると言え」
紅い目だけをカリマに向ける。
「──!」
「言えば、回復の力を与えてやる。そいつも生き返る…。この身体が死んだら、俺も今度こそ消滅するしかない。新たな宿主がいないからな…。だが、お前が許すと言えば──宿主はお前となる。そいつを、死なせたくないんだろう?」
シアンの口元が嫌な笑みに歪んだ。
シアンなら、そんな表情をすることはなかっただろう。腕の中のアスールは冷たくなりかけていた。
「そいつを助けたいなら──受け入れると言え」
紅い目が嗤った。
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