第1章 第4話 交渉の幕開け
フォン・アーデルベルト家、応接間。
高い天井、煤けたタペストリー、ところどころ磨耗した絨毯。
かつての栄華を思わせるこの空間も、今は沈みゆく船室のように感じられた。
エリザベート・フォン・アーデルベルトは、冷えた手を膝の上に置き、静かに呼吸を整えた。
(灯火屋商会。無名の小商い。だが、今は選り好みなどできない。)
家業は隊商、鉱山、倉庫管理。
いずれも、維持に費用がかかるばかりで収益性を失いつつある不採算事業だ。
負債も膨らみ、このままでは領地ごと傾きかねない。
売却できれば御の字だが、誰にも引き取り手が見つからなければ、最終的には費用を掛けてでも除却するほかない。
——それでも、動かねば終わる。
扉が叩かれる。
「灯火屋商会より、アルフレッド・ヴァインベルグ様、随員ハンナ・メルヴィル様が参りました。」
エリザベートは静かに頷き、扉を開かせた。
若い男と少女。
男——アルフレッドは、無駄のない一礼をした。
その目は、冷たく研ぎ澄まされている。
少女——ハンナは、緊張した様子で、深く頭を下げた。
(男は思ったよりも若い。だが、軽い印象はない。随員の少女は場に対してやや不釣り合いか。城下の商店の娘といった風体だ。)
エリザベートが口を開く。
「直答を許す。貴殿の立場を明らかにされたい。」
男が答えて曰く、
「はい、名代閣下。灯火屋商会、代表代行、アルフレッド・ヴァインベルグと申します。本日は、御家のご召喚に預かり、商会を代表して参上仕りました。」
エリザベートは、薄く目を細めた。その視線は、氷の刃のように静かで、どこまでも透徹していた。
「……名代、とは。」
声は柔らかかったが、わずかに響く余韻に、試すような気配が滲んでいた。
男は微動だにしなかった。空気が密やかに張り詰めていくのを、確かに感じながらも、呼吸一つ乱さない。
「呼び出し状には、御家当主アーデルベルト閣下のお名がございました。しかし、本日、我々をお迎えくださったのは貴女様——」
一歩も引かぬまま、澄んだ声で言葉を続ける。
「すなわち、当主閣下の意を受け、御家を代表して応対される方。ゆえに、名代閣下とお呼びするのが、礼に適うと考えました。」
エリザベートはしばし沈黙した。冷えた水面のような無音の時間が、廊下の奥深くまで満ちる。
男はただ待った。焦りも、戸惑いも、微塵も見せず。あたかもこの空気すら、計算の内であるかのように。その顔には、ただ礼を尽くす者の静謐さだけがあった。
やがて、エリザベートはそっと椅子に身を沈めた。硬い緊張を断ち切ることも、和らげることもなく、ただ当然のことのように。
エリザベートは、無言で席を促した。
男に侮る様子はない。貴族家へ商いに上がった以上当たり前のことだが、当たり前のこともわからぬ愚か者ではないらしい。
そして、アルフレッドはすぐに鞄から数枚の羊皮紙を取り出し、机に広げた。
「閣下。本日は、御家における不採算資事業の売却および資金回収のご提案に参りました。」
丁寧な口調。
だが、言葉の中身は、いささかあけすけだった。
(不採算事業、資金回収。——あっけないものだ。)
エリザベートは無言で書類に目を落とした。
隊商、鉱山、倉庫管理。
公表されている交易量、市場価格推移、税収額をもとに推定された収益性評価。
表面上は丁寧な整理だが、突き刺さるものがある。
アルフレッドは、手短に説明を続けた。
「隊商事業、鉱山事業はいずれも過去二年間で取引量が三割程度減少しております。
このまま保有を続けた場合、事業価値はさらに目減りし、損失リスクが高まるものと見ております。
倉庫事業については、隊商と鉱山が重荷となり、十分な設備投資ができなくなっているのではないかと拝察します。
倉庫に事業上の隘路(ボトルネック)はなく、財務体質の健全化で再建できるものと思われます。」
理路整然とした説明。
だが、その根底にある発想は、収益性と資金効率のみだった。
家の歴史も、名誉も、彼にとっては無意味なのだろう。
「貴殿が言うのは数字ばかりだが、口では何とでもいえる。信用、交渉力、時間——それらを見越していると?」
エリザベートが冷たく問いかける。
アルフレッドは即答した。
「はい。可能な限り高値での資産売却を目指し、交渉支援、価格調整、買い手選定まで一括してご支援いたします。」
無駄のない敬語。
だが、抑えきれない金銭勘定の匂いが、確かに滲んでいた。
エリザベートは、羊皮紙をめくる。
隊商事業に関する収益推定。
二年で三割減。
指先で羊皮紙を軽く叩きながら、何気ない調子で言った。
「このペースが続いた場合、あと三年で収益はどれほど残る?」
アルフレッドが口を開きかけた、そのとき。
「あのっ!」
震える声が割り込んだ。
ハンナだった。
顔を真っ赤にしながら、必死に言葉を繋ぐ。
「えっと……年平均で一五%減と仮定して……
三年後には、四十%くらいしか収益は残らない、と思います!」
応接間に短い沈黙が落ちた。
エリザベートは、少女に目を向けた。
(——即座に仮定を置き、年率減少を複利で換算。侮れない。)
「そうか、妥当な推定だろう。」
ハンナは顔を真っ赤にして、深く俯いた。
アルフレッドが、自然な流れで続けた。
「ハンナさん、ありがとう。
名代閣下、ハンナの申すに加え、3年内に南方交易路と東西内陸路の統廃合が予定されていることや、議会では関税率の引き上げ案が提出されていることもあります。
それらのような外部要因を踏まえますと、想定以上に取引量が減少する可能性もございます。
もちろん、長期的には関税引き下げ圧が想定されますが、目下の環境条件は望ましくない。
事業価値については、時間とともに下振れリスクが高まるものと見ております。弊職からは、やはり早期の現金化をご推奨します。」
口調は整っていた。
だが、当家の事業を「価値あるうちに現金化すべき対象」としか見ていない空気が、じわじわと伝わってくる。
(この男にとって、我が家の事業など、ただの現金製造装置か。)
喉の奥に、冷たいものが沈み込んだ。
「条件を。」
短く促す。
アルフレッドは、一枚の羊皮紙を差し出した。
——
——成功報酬、取引金額の三パーセント。
エリザベートは、無意識に羊皮紙を握りしめた。
(……あり得ない。)
売却の保証などない。
むしろ、除却となる可能性すら高い。
そんな中で、このフィー水準。
アルフレッドは、当然のように続けた。
「もちろん、事業売却が成立しなかった場合には、成功報酬は頂戴いたしません。中間報酬も不要でございます。
しかしながら、買い手探索、交渉、資料作成等、実務コストが発生する以上、着手の段階で最低限の対価はご負担いただくのが妥当かと考えております。」
言葉は丁寧だ。
だが、「当然でしょう」と言わんばかりの空気が、ひしひしと伝わってくる。
「閣下、我々には、御家に対してそれだけの価値を提供する準備がございます。
金子をもって選任いただければ、信義と論理と実働をもってお応えします。」
(——この男にとって、すべては金の計算だ。)
エリザベートは、喉の奥で乾いた呼吸を吐いた。
「——検討に入る。手続きについては、後ほど家令を通じて指示する。」
アルフレッドは、深く礼をした。
ハンナも、必死に頭を下げた。
彼らが退出したあと、エリザベートは、静かに目を閉じた。
(この男の前では、家の誇りも、歴史も、すべて価格に換算されるのだろう。)
そして、それを拒めない自分自身に、かすかな絶望を覚えた。
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