その翡翠き彷徨い【第5話 黄昏の時】
七海ポルカ
第1話
王妃アミアカルバはその日、隣国アリステアから客人を呼び、薔薇の咲く庭でささやかな茶会を催していた。
どうやら客人は昔なじみのようで、聞けばアミアとオルハがアリステアの国立学院で学んだ時の師に当たる人らしい。
優しげな顔をした初老の婦人で、メリクにも紹介された。
アミアは今はまだ、メリクも城に来て間もない為、むやみやたらに彼を人前に出すのは控えていた。
だからこうして紹介されるのはよほど相手が信頼出来る人である時だけなのである。
メリクはもともと大人しい少年ではあったが、知らない人間の前に出るとそれに更に拍車がかかり言葉を発さなくなる所があった。人見知りをしているのである。
その日も彼は最初アミアの隣に座ってお菓子やお茶を与えられていたのだが、しばらくして椅子の上で背を伸ばしたまま微動だにしなくなった。
アミアがそれに気づき「近くで遊んで来ていいわよ」と声をかけてくれる。
するとメリクは安堵したようで彼女達から少し離れて一人、薔薇庭園の方へと歩き出したのであった。
この薔薇庭園は王妃の庭で、ごく限られた人間しか入ることを許されない。
当然メリクも立ち入るのは今日が初めてで何もかもが珍しかった。
綺麗に刈り揃えられた薔薇の樹。
そこに美しく咲く花も、メリクは故郷では目にしたことも無いような大きな花だった。
白い薔薇の樹が並んでいる。
メリクの背よりも高いその樹の花の一房に、黒い羽の蝶が留って蜜を吸っている。
とても綺麗だった。
ふわり、と樹々の間を移ろいながら飛んで行く蝶を見上げながら、歩いていたら突然ぴっと服の裾を取られた。
見れば薔薇の棘に服の裾が引っかかっている。
サンゴールの人間が身に纏う、この手首も足元も長く広がった衣装にメリクはあまりまだ慣れていなかった。
捲り上がった服を困ったように見上げて、それを取ろうと手を伸ばした時だった。
ガサリと音がして、白い薔薇の向こうに黒い衣装を身に纏った人影が現われる。
見ればそこに第二王子リュティスがいて、こちらも思いがけずこんな所で引っかかっているメリクを見つけたように片眉を僅かに上げた。
いつもは魔術師の術衣姿なのに、今日は正装をしている。
フードも被らずに黒髪を露にしていた。
「リュティスさま」
メリクはリュティスを見つけた途端嬉しそうな顔をした。
こんな所で会えると思っていなかったのだ。
それに、ここ一週間ほどリュティスは忙しかったようで姿さえ見れなかった。
リュティスはメリクのそんな顔から眼を背けるようにし、その避けた先に引っかかった薔薇の棘を見つける。
一瞬眉を上げて煩わしそうな顔をしたが、リュティスは行こうとしていた向きを変えてメリクの方へ歩いて来た。
嬉しくて思わずリュティスの袖を取ろうとした所を動くな、と短く叱られる。
メリクは大人しく身を正したまま動かなくなった。
リュティスが側に腰を屈めてメリクの服の裾を棘から抜き取ってくれる。
指を動かして衣装を傷めないよう器用に抜き取ってくれているリュティスの、間近で見る顔をメリクはじっと見ていた。
――初めて会った時も思ったけど。
なんて眩しい人なんだろう、と思う。
メリクの生まれた村には男もいっぱいいたが、リュティスのような人は一人もいなかった。
形そのものの造りが違うみたいだ。
こうして見る横顔も、よく通った鼻筋も、細い輪郭も、指も長くて見たことも無い。
男の人に使う言葉ではないかもしれないけれど、綺麗な人だなとメリクは思っていた。
やがて棘が取れて子供の身体が自由になると、リュティスは立ち上がって歩き出した。
メリクは無意識に歩き出したリュティスの長い服の裾をぎゅ、と幼い手で握っている。
まだ出会って一月ほどしか経ってないが、リュティスに対する強い憧れは子供のメリクにも自覚出来るものになっていた。
「あらリュティス。どうしたの?」
夫人達に一礼したリュティスは、いつも通りの冷たい声で静かに答える。
「申し訳ないが客人が来ている。王のご容態を案じて元老院が呼んだ医者だが」
「分かったわ。オルハ、ごめんなさい少し席を外れるわね。メリクそこにいるのね」
リュティスの後ろから顔を覗かせたメリクにアミアは微笑んだ。
「悪いわね、リュティス。メリクの面倒を見てあげてくれないかしら。手を焼かせる子ではないから……側で見ててくれるだけでいいの。頼むわよ」
リュティスが一瞬顔を顰めたのが分かったが、客人がいる為かそれ以上は何も言わなかった。
客人にとりあえず会釈してからリュティスは歩き出す。
メリクは歩幅の大きいリュティスに置いて行かれないようにと、ほとんど走るようにして彼の後ろについて行った。
薔薇園を抜け、息も弾んで来たが置いて行かれまいとしたメリクが、リュティスの服の裾を掴んだが、その時いきなり前を行っていたリュティスが立ち止まり、頭上から叱りつけられる。
「服を引くなメリク! 無礼だぞ!」
メリクは驚いて手を引っ込めた。
リュティスが何に怒ったのかは分かったので、叱られた手を長い裾に隠して背中を伸ばす。
「ご……ごめんなさい」
そんなメリクを長い黒髪の間から睨みつけたリュティスだが、彼はそのまま独り言のように呟いた。
「アミアめ、躾を疎かにしおって……」
メリクはまだ幼かったが、王宮では何となく静かにしていないといけないような、そういう空気は感じ取っていた。
リュティスは王宮の人だから、リュティスの前では行儀よくしないといけないのだと思う。
子供ながらに神妙な顔で、リュティスの言うことを一言も聞き漏らすまいと顔を上げて見つめるメリクに視線を与えないまま、これ以上服を掴まれるのは我慢ならないとでも思ったのだろう。
リュティスの手が突然メリクの手を取って引いてくれた。
メリクの手の平は緊張したが、歩き出すうちにそれは緩んで、リュティスが一緒に歩いてくれることがひどく嬉しかった。
(リュティスさまの隣は、安心する)
アミアやオルハもメリクの手を引いてくれるけれど、リュティスと手が繋がってる時が一番好きだ。
一番嬉しい。
メリクは笑顔でリュティスを見上げたが、リュティスはいつもの厳しい顔で前を見たままメリクを見ることは無かった。
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