三分間だけ、天使

佐の六月

第1話

あの子の瞳の夢を見る。そこには何も持たない私が写っている。ただそれだけを写している。



秋と冬の隙間、今年も苦い季節が訪れた。永徳女学院高校の演劇部は十二月の降誕劇に向けての準備が始まっていた。今年の降誕祭の日付、演劇部の出演時刻。台本は毎年多少アレンジされるが、大筋は基本的には変わらなかった。


それよりも部員たちが最も関心を持っていたのは、降誕劇に出演する、役者を決めるオーディションの日程だった。


「では、オーディションは2週間後です。質問のある方はいますか?」


部長の声が、寒さと緊張でしんとした部室に響く。私は配られた台本に視線を落とす。羊飼い、博士、マリア。その文字たちの中で”それは”一際輝いて見えた。


「絃は、今年も天使役受けるの?」


私の耳は、いつもその名前を拾ってしまう。


「私以外誰か受けるの?天使役のオーディション。」


解散の指示が出されて、部員たちの喧騒に包まれる教室に、彼女の声はよく通る。誰よりも、鮮明に。


「私ずっと楽しみにしてたもん!絃の天使役がもう一度見られるの。」


取り巻きのような絃の友人たちは、口々に彼女を褒めるような言葉を並べ立てる。絃はどんな華やかな言葉にも頬を染めたり、謝辞を述べたりしない。


「私も、今年も演じられるのか楽しみ。」


彼女の声は、静かな水面を打つ雫みたいに一言一句に存在感があった。


「...花乃!」


自分の名前を呼ばれて、現実に引き戻される。


「もう、何度も呼んでるのに」


「ご、ごめんね。」


私があんまり焦ったからだろうか、皆は、私がぼんやりしていた理由を聞かないでくれた。


「花乃は何か、オーディション受けるの?」

「...えっと」


ぼんやりとした頭では1番答えるのが難しい質問に言葉が出てこない。


「...1つくらいは何か受けよう、かな。皆は?」


「当然裏方。」


「私もー。降誕劇の裏方が1番楽だし」


確かに。と私は笑いながら答える。


「私も、やっぱり裏方にしようかな。」


そう答えようとすると、絃たち一行は立ち上がり部室から出ていった。その時の喧騒に揉まれて、私の小さな決意の言葉はかき消された。


「柏絃、今年もすごいね。」


「さすが〜。自信満々。」


「ちょっと演技上手いからって調子乗っちゃって。」


部員たちがぽつりぽつりと、いなくなった絃への愚痴を零す。呆れと、嫌悪と軽蔑。絃を嫌う人たちの声には、いつもそんなものたちが含まれていた。それとは反対に、絃の声からはどんな感情もわからないような気がした。



柏絃は悪魔のような少女だった。



人見知りな自分を変えたいから、そんな風に言ったけど、本当は自分にも何かすごい才能があるんじゃないかとそんな期待をもって入った演劇部に柏絃はいた。


「1年A組、柏絃です。よろしくお願いします。」


誰よりもよく通る声をしていた。目が離せなかった。


圧倒的な存在感の中で、絃は少しの隙もなかった。些細な仕草も完璧だった。もし何か彼女に間違えがあっても、それが正しいもののように、私たちの目には映るのだった。


初めての台本読みの時だった。



「じゃあ、次は柏絃さん。ここからここまで読んで。」



あの時の耳にこびりつくような静寂をよく覚えている。誰にも彼女がどんな演技をするのか、想像も出来なかった。


「いつも2階から、君を見ていた。」


想像する必要もなかった。そんなもの軽く飛び越えて彼女の演技は私たちを引き付けた。強い引力みたいな衝撃で。彼女の声は感情をのせると、それだけのために生まれてきたような声になるのだった。彼女が泣きそうな表情を、喜びに満ちた表情をする度私たちの心もどんどんと移り変っていった。


絃の演技を先輩たちは口々に褒め讃えた。長い人生の中で数えられるほどしか言われないような賞賛を、彼女は一瞬で、数え切れないほど浴びた。
絃の演技の興奮が冷めやまない中、次の演者は私だった。


「じゃあ次は相川花乃さん、読んで。」


絃の周りでは、まだ友人たちが褒め足りないと言わんばかりに騒いでいた。先輩たちは、私の演技を聞こうとしてくれていたが、その関心がどこにあるかは明白だった。誰も私のことなど見ていない。いや違う、1人だけ。柏絃が私の方を真っ直ぐと見ていた。その時彼女と初めて目が合った。私は驚いて、慌てて目をそらす。台本を読むふりをして、柏絃の目を思い出していた。私の目を見ながら、私には特に興味が無いみたいだった。「早くしてくれない?」とでも言いたげな目だった。


結局部長が皆に声をかけるまで。部員は静まらず、私は一言も発せなかった。その不自然な静寂の中、私は聞くに絶えないような演技をした。自分でもこんなものかとびっくりするほど冴えない演技だった。


「もう少しはっきり読めたらいいかも。あともっとゆっくり。」


部長の素っ気ない声とあまりにも呆気ない評価で、私の初めての演技は終わった。それは私に、今まで感じたことのないような劣等感をもたらした。


私は、私が思っているほど特別ではなかったのだ。特別という言葉きっと、柏絃のためにあるのだろう。そう思った。


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「絃、A高の山口と知り合いなの?」


その日の部活前、絃たちは部室の中心に集まってお喋りに興じていた。私は私の友達と、いつものように隅の席で話しながら課題をしていた。


「誰、それ」


誰、と尋ねながらも答えにはまるで興味が無いみたいな声だった。彼女の視線は携帯に注がれ片手で頬ずえをつきながら、話しかけてきた友人の方を見向きもしていなかった。


「A高のサッカー部。うち中学一緒なんだけどそいつが絃のこと知ってるって言ってて。」


彼女は携帯をいじる手を一瞬止めて、視線を宙にやる。でもすぐにまた手を動かしながら


「この前、校門で話しかけてきた人かな。」


「え、なんて話しかけてきたの?」


「連絡先交換しない、って。」


「それでなんて返したの?」


周りが口早に質問していく中彼女はゆったりとした仕草で淡々と答えた。


「何か面白いことしてくれるんですか、って」



「何それ!」


楽しそうに笑う彼女達の中心にいるのに、絃の態度は相変わらずだ。


「そしたらえー何ーって言われたから、なら無理です。ってほっといてそのまま帰った。」



「嘘、山口けっこうかっこいいじゃん。」



「なんかつまんなそうなんだもん。私、つまんない人嫌い。」



「えー、つまんないって。」



「実際、私と連絡先すら交換してない癖に知り合いとか言っちゃってるもん。ダサ。」



「それは言えてる。」



「つまらない人に使う時間なんて、1秒もないから。」


聞く気がなくても耳に入ってくるような声と内容にみんなが苦い顔をする。


「部室でデカイ声で話さないでくれないかなー」


「ほんとにうるさい。課題に集中できないですけど。」


こそこそと内緒話をするみたいに、次から次へと皆の絃への悪口が止まらない。


「もう、みんなそんなこと言っちゃダメだよ。」


私はなんとかその場をなだめようとする。


「花乃ってほんとに優しいよねー。」


「柏絃に花乃みたいな優しさが1ミリでもあったら良かったのに。」


そう言われると私は、みんなの悪口を止められて良かったとでも言うようににこにこと笑う。絃の悪口はもちろん。柏絃みたいに恐ろしい人に、興味なんかないみたいに。それなのに。私は内心、絃の一挙手一投足が気になって仕方なかった。


つまんないって。どうしてそんなに傲慢で、残酷で。自分に人を選ぶ権利があると思っているんだろう。どうして、それがそんなに似合うんだろう。


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「主は、貴方と共におられる」


台詞を読んだ後の、自分の部屋の静けさが、やけに耳に突き刺さる。私は家に帰ってから、部屋に籠ってもう長いこと、天使役の台詞の練習をしていた。


「裏方やるって、言ったのに。」


どっちつかずの態度のまま、それでもやっぱり天使役にしがみつこうとする自分に嫌気がした。


絃は、どのくらい練習するんだろう。誰かに練習を聞いてもらったり、私みたいに上手くできないと悩んだりするのだろうか。


忘れられない。去年の降誕劇のオーディション。ずっと裏方しかさせてもらえなかった1年生が始めてもらえる役者のチャンス。誰もが欲しがる天使の役。1年生のほとんどがが受けたオーディション。


結果、天使役をかっさらっていったのは絃だった


(役者、できなかった。)


(1番やりたかったのに。あんなに、あんなに練習したのに。)


確かに、絃の演技はずば抜けていると思う。でも私だって毎日のように練習した。自分が出来る最大限の力を出し切った。はずなのに。オーディションでは同じ役を受ける人の演技を見ることはできない。だから私は、浅ましくも自分の方が相応しいに決まっていると思ってしまっていた。何かと理由をつけて、練習風景もほとんど見ようとしなかった。1度でも彼女の演技を見ていたら、そんなこと考えるはずがないのに。


「恵まれた人、あなたはそこで光を見る。」


「いかなる絶望もその光の前では無意味。」


総出演時間たった3分。でも、彼女は間違えなく天使だった。普段の残酷な姿も傲慢さも、そこになかった。



その時、つい、思ってしまったのだ。彼女のようになりたかったと。


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心の準備は一向にできないまま、決着の日は刻々と近づいてきていた。家で練習していても、あれこれと嫌な未来を想像してしまう。仕方ないので部活はないが、今日は部室で個人練習をしようと思った。もしかしたら先輩が練習しているかもしれない、そうしたら自ずと気も引き締まるだろう。


この時期、放課後の廊下はほの暗く、窓から入る陽の光が零れるように降り注ぐ。それは断片的に思い出せる夢の中のワンシーンのような、曖昧で確かな存在感があった。


部室にたどり着いて、ドアを開けようとした時、その手が思わず止まった。中から声が聞こえたからだ。先輩たちが練習している声じゃない。絃たちが話している声だ。何を話しているかまでは聞こえないが、それでも少女たちの笑い声が響いてくる。


ああ、やっぱり誰か一人でも友達を誘えばよかった。でもそうしたら本当は私が天使役を受けたいことがバレてしまう。仕方ない、帰ろう。いや、でもせっかくここまで来たのに。そうよ、私も絃たちも部員なんだから、部室をいつどう使うのだって自由だ。でも集中して練習できるの?もしかしたら彼女たちだって練習してるかもしれないじゃない。今は休憩中なだけで。うんうん。そうだ。


私は私を納得させるとゆっくりと部室のドアを開けた。部室のドアは立て付けが悪くどう開けようと嫌な音が響き渡る。その音に引かれるように彼女たちが一斉にこちらを向く。その遠慮のない視線に捕まって動けなくなる。一瞬世界が止まってしまったかのような静寂。


しかし、それはすぐに解かれまた彼女たちは話を再開した。私はそそくさといつもの隅の席に座り、台本を取り出した。

ああ、やってしまった。やっぱり練習なんかしてなかったじゃない。


彼女たちはめくるめく速さで様々なことを話していた。授業への不満、先生への不満、家庭での憂鬱、欲しい服の話…。話題を決める者も、話題を終らせる者もいない。それぞれ思うままに話している。私は練習ができないなら、すぐにでもでて行こうと思っていた。でも彼女の声が、絃の声が話の合間合間にするりと流れ込んでくると、途端に私はその場に縛られたみたいに動けなくなる。


私だって知りたい。絃の嫌いな先生の話。絃のお母さんの話。絃が着ている服の話。なんの躊躇いもなくそれらを聞ける絃の友人たちが羨ましかった。私は台本を指でなぞるそぶりをしながら、彼女たちの声に耳をすませ続けていた。


「てか絃って全然練習しないよね、家とかでなんかしてんの?」


突然、最も気になる話題が飛び出して息が止まりそうになる。まさか、ずっと気になってたことの答えが聞けるかもしれないなんて。でも


「私、練習とかちょー嫌い、」


それはあまりにも残酷な答えだった。


「楽しいことしたくて演劇部入ったのに、わざわざ苦しい思いとかしなきゃいけないなんて意味わかんないじゃん。そんな気持ちになってまでしたいことなんてないよ、私」


だから思わず


「どうして、どうしてそんなこと言えるの。」


考えるよりも先に、立ち上がっていた。
考えるよりも先に、言葉が出ていた。


しまったと気づいたのは、耳鳴りみたいな静かさと、射抜くような絃の視線と目が合ったからだった。


途端に、自分の顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて、でもここまで言ってしまったなら、もう全部言ってしまうしかないと思った。


「うるさ。」


静寂を破ったのは、他でもない絃の声だった。


「どうしたの?そんなに大きな声出しちゃって役が貰えないのがそんなに悔しくなっちゃった?」


あまりにも強い言葉に、しばらく自分がそれを言われているとわからなかった。


「…は、え、ちが…」


「違わないよね?」


大声で、せめて立てられている訳でもないのに。有無を言わせないその声に、言葉がでてこない。


「自分に才能がないのが悪いのに、勝手にキレて大きい声出して喚いて...恥ずかしくならない?」

「相川さんってほんとダサいね。私、ダサい人嫌
い。」


初めて、真っ直ぐと自分に向けられた言葉の鋭さに呼吸が止まりそうになる。酸素が回っていないみたいに、頭がクラクラしてくる。


私は、何も言わなかった。言えなかった。代わりに台本がぐしゃぐしゃになるのも構わず鞄にしまって脇目も振らずに部室からでていくことしかできなかった。廊下は既に暗くなっていた。


柏絃に嘘は必要ない。
柏絃に優しさなんて必要ない。


だからあんな言葉を簡単に吐ける。私の優しさは、いつだって対価をもらうための偽物だ。愛してもらうためには、嘘をつかなきゃいけない。


でも絃は違う。そんなことをしなくてもどれだけワガママで残酷でもあの子は全てに愛される。愛のための優しさなんて必要ない。


「ずるい...」


あんなことを言われても、私は柏絃になりたい。
私は私を辞めたい。もしも、彼女のように生きられたら。


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闇色の、空の向こうが少し明るい。もう朝が来てしまうのか。夜から繋がったままの朝は希望のふりをした絶望みたいだった。私は、昨日からもうずっと自分の部屋に籠って天使役の練習をし続けていた。狂ってる、狂いたかった。完璧な天才になれないなら狂った天才にでもなってやりたかった。


鏡には情けない自分が写っている。顔も髪もぐしゃぐしゃで、喉はとっくに限界だった。情けない。這いつくばるように生きている。あの子のようになりたかった、でもなれない、なれないから

転んでも、涙がでても走り続けないと。


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「それでは、次。天使役を受ける人は前に出てきてください。」



椅子を引く2つの音が静かに重なる。立ち上がる2人。部員たちのざわめく声が聞こえる。部長だけは、黙ってまっすぐ2人を見つめている。


「そうしたら、出席番号順に、相川花乃さんから。柏絃さんは控え室へ。」


「はい。」


その声に部室からざわめきが消える。それが彼女“たち”から放たれたとは、信じられないような声だったから。


相川花乃が教壇に立つ。その時の雰囲気を──。上手く言えないけれど、あえて言うなら。この演技が終わってしまったら、彼女は死んでしまうのではないか、そう思わせる怖さがあった。


そして彼女の演技もまたそのようだった。


その時誰もが思った。天使役は相川花乃がもっていくのではないかと。


演技を終えた花乃が教壇から降りていく。


それはもはや、舞台を終えた役者が、ステージを降りていく様のようだった。花乃が部室のドアを開けると、控え室にいるはずの絃がもうそこに立っていた。


「柏さん!?どうして...」


絃と花乃がすれ違うその一瞬、絃が何かを花乃に囁いた。部長の声で、かき消されたその言葉。
花乃は暫くぼんやりとその場に立ち尽くしていた。絃の「よろしくお願いします。」という声を聞いてようやく花乃はその場から去っていった。


ドアが閉まる高い音。その余韻が消えるまで、絃は演技を始めなかった。長い沈黙の後、彼女の演技が始まった。


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「天使役、柏絃。」




「降誕劇の役者は以上です。練習は明日から始めます。役者は台本をしっかり読み込んでおくこと。では、解散です。」


天使役 柏絃という文字はまるでそれ自体が初めからそういう言葉だったみたいに。規則正しく黒板に書かれていた。


その白い文字から、目が離せなかった。私は、オーディションを終えた安堵でざわめく部室を、タイトルもあらすじも知らない、異国の映画を見るように眺めていた。その場から動くことが出来なかった。手も足も震えるくらいに冷くて、動かすことすらままならないのに、体の底からドロドロと熱い何かが湧き出てくるのを呆然と感じる。


自分がどのような気持ちになるべきかわかっていた。でもそのどれもを本能的に拒んでいた。


「相川さん。立てる?」




考えるよりも先に声の方を向く。それが部長の声だったから。部長の声はいつも変わらない。演技の声、部内の諸連絡の声、褒める時の声、オーディションの結果を伝える時の声。変わらないことがこんなにも安心することなのかと、この時初めて知った。


「オーディションの結果のこと、1度話しておきたくて。」


気がついたら、部室には誰もいなかった。もうそんなに時間が経っていたのか。


「今回、本当に残念だったね。」


こんな風に部長と2人だけで話すのは初めてだった。


「私たちもね、本当に悩んだの。」


「いいんです。別に。」


自分の口から出る声が、言葉があまりにも冷え冷えとしていて怖くなる。でももうどんな風に話したら、上手く心が伝わるのかわからなかった。全てを伝えるには、その時の私の心はあまりにもぐちゃくちゃだった。


「でも、本当に、本当にね、演技が上手くなったなあって思ったの。」


その言葉を、声を聞いて。オーディションが終わってから初めて、泣きそうになった。


「私も、役を全然貰えなくて。悔しくて。昔はたくさん練習した。それでもやっぱり見違えるほど変わったりはしなかった。」



「変われただけでも本当に、すごいよ。」


変わっているのだろうか。今もまだ天使役への思いが少しも捨てきれていない自分が。


「だから、今の相川さんだからこそ。この役をやって欲しいって思ったの。」


羊飼いの役。


部長はそう言って私に新しい台本を手渡した。あるページのためだけに、めちゃくちゃになってしまった私の台本の代わりに、部長はそれを用意してくれたのだった。最初のページには登場人物──その横にそれを演じる人達の名前が手書きで書かれている。


羊飼い 相川花乃
弱く、何も持たないもの。


そう書かれていた。 

「何も持たないもの...」

弱く何も持たない羊飼い。それが私に与えられた役。


「今の相川さんならできると思うの。」


「楽しみにしてるよ。他の誰よりも。相川さんの演技。」


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どこまでも惨めだ。



「相川さん!」



「次、セリフでしょ。ぼーっとしてないで!」



先輩の声に慌てて思考を切替える。そう。もう悔しがるのは辞めて、がんばるって決めたじゃない。それでも、絃を目の前にすると自分の中の醜い感情がぐちゃぐちゃに溢れそうになる。


降誕劇の見せ場であり、絃の唯一で最大の見せ場である羊飼いと天使の会話のシーン。このシーンは、何度練習してもどうしても上手く出来るようにならなかった。私が怒られている間、花乃は少しもこちらを見ていない。ずっと、どこか遠くを見ている。どこまで努力しても、私は何も持たず、この子は私に見向きもしない。


見てよ、こっちを見てよ


絃がこちらを向いて、目が合う。


「先輩さっきから言ってるけど。練習再開だって。」

「え、あ」

「相川さん、やる気ある?」


いつもそう。絃は私を見ていない。目を合わせて、話していても。


「...ごめんなさい。」


それでも、1度だけ写ったのだ。あの日。オーディションの時。私はそれを知っている。
だからもう一度、もう一度だけ、その瞳に私を入れて欲しい。


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それは遠く、永遠に届かない場所にいるものに、恋をしているような気分だった。


「絃かわいい〜!」


どの衣装も、外部から買ったものを、そのまま使うか、少し手を加えるだけだった。でも天使役の衣装は特別だった。


滑らかな乳白色のシルクに光を透かすシフォンが重なったロングドレス。一見慎ましやかだが、袖口や裾には金細工のような細やかなレースがあしらわれていた。ドレスを着て、動く度光が溢れて、零れるように反射する。


これはどこかから買ったものではなく、ずっと昔の演劇部の誰かが作ったものを代々受け継ぎ、大切に丁寧に手入れされた特別な衣装だった。昔の誰かも、かつての天使に魅了されて、こんな衣装を作ったのだろうか。


天使役の衣装を纏った絃は覚めても消えない夢みたいだ。それは私を惑わして、私はいつもどうすることも出来ない。そんな悪夢のような。


━━━━━━━━━━━━━━━



「次は永徳女学院高校演劇部による降誕劇。御使いを待て。」


礼拝堂の光が落とされる。蝋燭の火だけが朧気に揺れる中、降誕劇が幕を開けた。



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「私は、何も持たない羊飼い昨日食べるものも、眠りにつく家も持たない」


「ここはとても、とても寒い...このまま私は死ぬのだろうか。たった1人で」


「虚しい...とても、とても虚しい...」


虚しい、本当にこのまま死んでしまえたら。


羊飼いが、舞台に倒れ込む音が礼拝堂に響く。


そうして生まれ変われたら...。生まれ変わって、あの子のようになれたら...。


「おめでとう。恵まれた方。」


「...あなたは...?」


「顔を上げなさい。美しい人。」


美しいあなた。


「何も恐れることはない。」


何も持たない私。


「あの輝く星をご覧。あの場所で奇跡は起こる」


光のようなあなた。


「恵まれた人、あなたはそこで光を見る」
天使のようなあなた。


「いかなる絶望もその光の前では無意味」



3分間だけあなたは天使、そこには絶望も残酷もない。


あなたは私を苦しめる、だけど。


「あの光を、見に行こう...」


このまま生きて、またこんな風にあなたの瞳に私が写るなら。それだけで、私の生きていける理由になってしまう。


ああ絃。あなたが憎くて羨ましい、焼き付くように憧れる。私から生きる理由を奪っておいて、私をこんなふうに生かすなんて


私の悪魔、私の天使。    


━━━━━━━━━━━━━━━


誰もいない礼拝堂は寂しい。叶わないのに祈っているみたい、悪くもないのに懺悔しているみたい。

降誕祭は終わり、演劇部も撤収作業が片付いた。きっと今頃部室では、劇の成功を喜びあっていることだろう。


私は何だか胸がいっぱいで、ひとしきり皆と喜びを分かち合ったあと。再び礼拝堂へと戻ってきてしまった。


ここからは、舞台がよく見えた。私と、あの子がさっきまで立っていた舞台。ステンドグラスから夕暮れが透けて降り注いでいる。私は、全てをあそこに置いてきてしまったのかもしれない。私の胸を満たした何かは、既に零れ落ちていて、舞台の上でキラキラ光っているあれなのかもしれない。


「こんなところにいたんだ。」


私の耳は、いつもその声を拾ってしまう。


私は、声のする方へと振り返る。


いと。と、誰にも聞こえないような声で呟く。私はまだその名前を、面と向かって言えたことがない。


絃はゆっくりと歩いてきて、舞台のひな壇に座り込んだ。夕焼けはより一層強く舞台を照らした。


「降誕劇、どうだった?見たいシーンは見れた?」


「...眩しくって。」


「そう。...じゃあなんで泣きそうなの?」


「絃。」


「何。」


「来年も、何度でも。天使になってね。」


「当然。相川さんは、もう天使になれなくていいの?」


「いいの。」


「私は来年も、その先も、何も持たない羊飼いでいいの。」


「そう。」


それだけ言うと彼女は、ひな壇を駆け下りて行ってしまった。


夕焼けはもう落ちて、舞台はいつのまに暗くなっていた。



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